映像記憶と言語記憶

ブログを書くにあたり、
写真を使いたいので、
カメラから取り込み縮小して
その上で画像をプールする。
その過程で映像を記憶する必要が生じる。
その時私は自分が映像を言語に移し替えて
一時記憶しようとしているらしいと気付いている。


この写真の次はこれ、
この写真はもう使った、
こんな感じなのだが、
映像記憶回路のできのいい人は
言語に変換しなくても
「この写真」とぴたり言い当てるのだろう。
訓練すれば、多分、言葉で、
桜でつぼみ、上が青、なんて言ってなくてもよくなるのだろう。


音楽についてもそうで、
メロディーとか音そのものとか、
言語に変換しないで記憶するのだろう。
わたしの場合はやはり言語を乗せて記憶した方が早い。
言語なしにメロディーを記憶できる種類のメロディーはやはりできがいいのだと思う。


こうして考えてみると、自分が圧倒的に言語人間なのだと思う。
そしてそのことは自分の大きな限界でもあると感じている。
わたしの場合には言語とは日本語なのである。
だから、日本語に制約されて条件付けられているということになる。


むしろ映像記憶がすぐれていたり、音楽記憶がすぐれている方が、
世界に向けて発信するには好都合である。
言語人間としても、せめて英語であったなら、広がりも出る。
しかしわたしの場合には日本語なのである。
私の予想では、日本語は近い将来、
ヨーロッパ語におけるハンガリー語みたいな位置づけになって行くだろう。


そんなものに制約され、あるいは導かれても、どうしようもないのであるが、
それを知りつつ、やはり逃れるすべもなく、
このように日本語を悪く書いているのもまた、
日本語が思考しているのであるからして、
「私」などはほとんど無に近いものなのだ。