高輪で花吹雪

高輪地域の桜ももう終り頃で、今日はどこでも桜吹雪である。
カメラのシャッターを押せば、舞う花びらが写りこむ。
しばらく歩いていれば、花びらを浴びる。
男性の油のついた頭には、桜の花びらがくっついている。

音もなく豪華に散る花よ。

今年は下町ゾーンの桜は撮影することが少なかった。
何しろ人ごみで、参る。
それでも、やはり桜は楽しく、桜の季節は他に替えがたい。

紛争、気が、貧困、人権抑圧といった世界の現実から見れば、
こうしてカメラを持って歩き回るという矮小な時間を生きている自分も、
まずまず恵まれたものなのかとも思う。

上を見ればきりもない。
この体と頭でこの世界を体験していくことのほかに、
私としては存在しようがない。

読書体験というものは、他人の体と頭で世界を体験してみようかという試みなのだろう。

自分の体と頭、そして生きてきた経験、これから逃れようはない。
読書体験の中では、そうした制約から離れることもできるように思うが、所詮、
最後に経験している主体は何かといえば、この自分以外にはないのだ。

上を見ても下を見てもきりがない。
横を見ればやはり果てしもない。
そんな中で、私としては、体験を広げる方向での試みは、あまり熱心ではない。
現実の制約が多すぎるのも一因である。

私は子供の頃から、貧しく、制約された体験の中でやりくりするしかなかった。
本はない、旅行は縁がない、外食もしない、お土産なんかない、お歳暮もない、
要約して言えば、親に金も教養もなかったのだ。
普通、金を取るか、教養を取るかみたいな対立軸の考察はあると思うが、
それは恵まれた者の考察であって、
恵まれない人間は、金も教養もないのだった。ついでに多分、プライドも。
そんな中で、わずかに与えられたものの中で、
深みを追求するしかないのだ。
アンコールワットの旅行記に、写真もつけて、夏休みの宿題として提出することなんかできないのだから、
仮面ライダーのショッカーの悲哀について、しつこく毎年のように考察を続けるしかなかったのである。

逆に言えば、豊かな体験を享受している子供たちは、
仮面ライダーの中で消費される、ショッカーの命の軽さについて、
言われれば考えもするだろうが、豊かな人たちはおおむね頭がいいから大いにすばらしい考えも湧くのだろうが、
それでも、執拗に追いかけるとか、そもそもショッカーに着目するとか、
そんなことに至るための、基本的な条件が欠けているのだ。
そんなことに着眼するためには、ある程度マイナスの条件がなければならないように感じる。
そして、ここは私としては、指摘の際に小気味よいのだが、
日本で金持ちといっても、支配階級といっても、
ヨーロッパの貴族に比較するとどうか、アメリカの金持ちに比較するとどうか、
と考えてしまうのだ。
だとすれば、島国から出たことのない貧乏人の私のほうが、
欧米の貴族や富裕者に対して、独自の視点感性を持つはずではないか。

いや、こんなことを書きたいのではなかった。

普通の体験であっても、それを深める方法はあるといいたいのだ。

ディズニーランドに行っても、ただそれだけでは、本物のアメリカのディズニーランドの方がよさそうだ。
苗場にスキーに行ったといっても、ヨーロッパのアルプスで滑るスキーを体験していないのなら、
そんなものは所詮田舎の惨めな道楽である。

それならばいっそのこと、私のように、レジャーは、近くの公園で見る花見程度しかない、
しかし桜を細かく観察することにかけては、
ヨーロッパ貴族の末裔に何ら劣るものではない、
そのような自負を持ちつつ、生きたいと思うのだ。

いかにして体験を深めることができるか、
その一点を問いかけたいと思う。

その極点に、宗教体験はあるのだ。
ただ普通に生きていることから、宗教体験を「削りだす」ことがこの場合、重要なのである。

特殊な体験からの結論としてあるものならば、
結論も特殊であるにちがいない。
普通の生活の中から得られる結論であるならば、
普遍性があるにちがいない。

普通の生活の中からいかにして
宗教体験を。

また性的体験についても似たことがいえる。
性的に卓越したもののみが持つ体験を問題にしているのではないのだ。
性的体験は、普通の人間がいかにして、深い性的体験を味わうことができるかという問題である。

普通の景色の中に、普通の体験の中に、
いかにして、深みのある体験をすることができるか、
それです。まさにそれです。