大江健三郎「話して考える」と「書いて考える」1

大江健三郎 著  「話して考える」と「書いて考える」 より

○小説家の仕事とは、言葉をみがくこと、みがいた言葉によって自分を表現すること。

●なるほど。言葉をみがくこと。私なりにいえば、言葉の精密な地図があり、その地図に従って、思考や感情を精密に描くこと。
●言葉をみがくことは、精密な辞書を持つこととかなり近い。辞書は地図帳である。
●辞書は、客観的で変化しないものでもあり、しかしまた一方で、個人的で変化し続けるものでもある。変わるところと変わらないところ。芭蕉の不易流行に似ている。
●みんなに通じる言葉で、非常に個人的なことを書く、そんな場合もある。みんなと共有していることなら、言葉は要らないかもしれない。「火曜日の、アレ。いつもよりもっと、アレ。」なんて言うだけで通じるかもしれない。しかし個人的なことはそうはいかない。従って言葉を選択しつつ注意細心の上で語る。しかも、それが通じるとは限らないのだ。私の考えている言語マップと、読者の抱く言語マップがずれているなら、もうそれまでなのだ。むしろ、言語マップがどんなにずれていようとも、困らない程度の、基本的語彙だけで構成するのも、いいかもしれない。翻訳も容易だし、時代が経っても通じるのかもしれない。
●たとえば、移動電話やパーソナルコンピュータの話題では、言葉の選び方が大切だということがはっきりわかる。マニュアルの文章は、わからない人に説明する力がないようだ。専門用語で書いてしまえばわかったような気分になるけれど、急速に古くなる。専門用語を使わなければ、何とも言いようがない。つまり、このような分野では特に、体験として何が共有されていて、言葉としてなにが共有されているか、問題になる。突き詰めて考えれば、分かる人にしか分からないという事態が待っている。そして、多くの場合、「伝えたいこと」はその基礎的な部分ではなくて、その先の部分である。だから、マニュアルは書きにくいのだが、その先の、高度な話題については、専門家同士では話が通じやすいことになる。
●そのような専門用語の壁は高くなりつつある。逆に、非専門的な、人間として共通の体験を基盤にして、話が通じ合うようにするには、共通基盤がどんどん少なくなっているのではないかと感じる。昔はプロ野球の話をしていればよかった。いまではそうではない。人々の生活や意識が多様化したということもあるのだが、一方では、専門生活ばかりが長く、日常生活の中で、一般の人間として過ごす時間が少なくなってしまっているのではないか。そのような人に向かって、どんなたとえ話が有効なのか、かなり考えてしまう。
●自分の文章を平安時代の古文に翻訳してみれば、特殊性や時代性をはかることができるのではないか。
●無意識のうちに自動的に癖のようにくり返している、杜撰な言葉選択をやめて、もっと意識的に、言葉を選択する。すると、思考や感情までも、よく吟味されたものに高まるのだ。文章家ならば文章を鍛えるのは当然であるが、そうでない人にも、「書いて考える」ことをすすめるのは、書くことを吟味することによって、考えることが精錬されるからだ。
●単純にいえば、矛盾したことを言うなということだ。根拠を吟味し、その上で論理を検証し、展開して下さいということだ。レトリックの話ではない。そうした根本的な誠実さの問題なのだ。そこをすっ飛ばして、結論に合わせて議論をねじ曲げて、恥じない。そのような態度は、どうかと思う、ということになる。それはひとつには、「話して考える」態度に関係しているのではないかということだ。
●言葉をみがくと言うからには、文章を、少なくとも何通りかに表現して、それぞれを比較し得失を認識しなければならない。普通はそんなことはしない。用が足りればすむ。わずかに、手紙などの場面では、表現を工夫するが、慣れてくれば、自分なりの鋳型ができて、その通りに書いてしまうものだ。それが能率につながるのだが、思考の精錬にはつながらない。
●語彙の選択とはまた違うことであるが、文章について、1.普通モード、2.平安、3.グロテスク、4.オペラ、などと、ブログのスキンのように、自分なりのひな形を作っておいて、それぞれのモードで書いたらどうなるかを試してみても面白い。文体変換である。

●一度書いた文章を書き直して吟味するということはもうあまりない。文章は軽くなった。嘘が書いてあっても、論理の間違いがあったとしても、そのままで放置される。湯水のように消費されるものになりつつある。