六ヶ所村 他人を踏みにじる権利が誰にある

六ヶ所村のことを考えるたびに
私の心は憂うつになり
頭が詰まってしまいます

専門的なことはよく分からないのは仕方のないことなんだけど
でも仕方ないといってはられない

六ヶ所村再処理工場で耐震計算ミスがあり、
日立エンジニアリング・アンド・サービス社は11年にわたり事実を隠ぺいしていたという。
大地震が起きた場合、土台部分の強度不足で切断装置が転倒し、
使用済み燃料などを傷つける恐れがある。
1993年に耐震計算を行った際、
切断装置の固有振動数などのデータを誤入力したことが原因、
その後放置されたということらしい。

六ヶ所村のプルトニウム生産工場では、
5トンものプルトニウムが作られていて、
長崎に落とされた原爆の500発に相当する。
もし事故が起これば大変なことで、
いままで地震が起こらなかったので助かっていただけのようだ。

放射能汚染といわれても
長期間にわたる影響なので
現実に生きている人間が影響を実感できる部分は少ないのかもしれない。
夢千代日記で胎児被爆の影響が描かれていた。
チェルノブイリでは大きな影響が実際に起きて、
しかもいま、事故のおきた原発施設でどのようにして放射能にふたをするか、
大問題なのだと報道していた。
全体を囲ってしまったとしても、なお、時間がたてば、放射能は漏れてくる。
それを防ぐために、もっと大きな建物を作って全体を覆ってしまう、
それくらいしか工夫はないようだ。
完全にお手上げなのだ。

核を上手に扱うだけの技術は本当はないのだと思わざるを得ない。
将来のことに関して言えば、ますます技術は不安定になるだろう。
日本人全体のレベルが劣化しているからだ。
教室でじっとしていて話を聴くこともできない人たちが、
理屈を理解して、手順どおりに、この難しい放射能を扱えるとはとても思えないのだ。

そのうちに私は死んでしまうだろう。
それまでに六ヶ所村を大地震が襲うことはないかもしれない。
地震も危ないが、誰か悪意のあるテロリストがいて、
その人が六ヶ所村を襲ったらどうなるのだろう。

考えたくないが、不可能な話ではない。

そしてまた、なぜ六ヶ所村なんだろうと考える。
進んで引き受けた面もあり、
押し付けられた面もあり、
現実は複雑なのだろうけれど、
それにしても、六ヶ所村という土地もかわいそうだし、
その場所に住む人々もかわいそうだ。

こうしたことを決定した人たちはそのことをどう思っているのだろう。
六ヶ所村とそこに住む人々はどうなってもいいのだろうか。
そのように他人を踏みにじる権利が誰にあるというのだろうか。

政治も企業も、
誰もが無責任である集団、
そんな中でプルトニウムがどんどん増えてゆくことの恐怖。