安岡章太郎「宿題」

学校不適応になっている小学生。

ずる休みをしたりして過ごしている。

宿題をやっていないと立たされる。

しかし宿題ができない。

一日どう過ごしていいか分からないけれど

とりあえず墓地に行って一日を潰している。

いまの私もこんな感じかもしれない。

そんなものだ。

思い返すと

学校はいやなものだった

夏休みが終わる時など

とてもやるせない気持ちだったと思う

学校が終わった時には解放された気分だった。

なぜ学校なんかに行って

山ほどのくだらない課題に取り組まなければならないのか

信じがたい拷問に思えた

走ったり楽器を鳴らしたりも

くだらないことだった

いやそのようなはっきりした認知はなく

世の中というものが

生きるということが

漠然と苦々しいものだと感じていたのではないか

いいことなんかなにもなかった

さいわい私にはまだこの先の人生がある

まだあるということを

まだ苦難の可能性があると考えて落ち込むこともできるけれど、

まだ多少の楽しみもあるかもしれないと

楽観的に考えることもできる

いや

実際は

いまの気持ちを正直に言うなら

この先どんないやな目に遭うだろうかという

不安と恐怖の方が強いのだ

現在は漠然とした嫌悪ではない

明確に他人の悪意が怖いのだ

安岡章太郎の小説について言えば

こんなに小さな時期に心に外傷を植え付けられ

そこからどんなふうに生きられるのだろうかと

ため息をついて読んだ

この少年の場合には、何か一つだけ、

小さなきっかけがあれば足りるように思う。

自信が持てる何か、

自分を肯定できる小さな材料、

それで充分であるように思う。

君にはたくさんの未来がある。

一方私には

たいした未来はない。

たとえば昔親しんだ音楽を順番に聞いたとして、

聞くこと、その際に思い出すこと、

それらを考えたとして

全部を聞くこともできないような気もするのだ。

現在が失われていることと

未来が失われていることとは

結局同じことなのか

わからない

大型連休

でもなにも考えがない

休みがあったって私はどこにも出かけない

ただ部屋の中で本を読んでいるだけだ

それ以外の活動は私には似合わないことが

今回のこの生活で心底分かったと思う

結局身にあったことをして生活してきたのだと思う

学校不適応になってずるずると日々が過ぎてゆく感覚

それと同じ感覚で私はいま人生を生きている

だからこそ、こんな小説を読んでいる

生きることは戦い続けて勝ち続けることなんかじゃないと思いたいらしい

でも、どうだろう、

時間が経てば結局は、戦いの中に行ってしまいそうだ

子供

こどもは生き甲斐になるだろうか

このあと生きる理由といってもそれくらいしかないのだった

創作活動

それも一種の子供のようなものだけれど

ただ気持ちがぼやけてしまって

なにも考えられないのだ

どうしてだろう

こんなに情けないのは