精神の異常と正常

精神の異常と正常を区別して診断するのが

精神科の診断学というものであるが、

そもそもそこでいわれている正常異常とは何か、

問題がある。

昔は生命は不思議であり、無生物と生物の間には絶対の隔壁があると思われていた。

不思議を総括して、Vitale 生気的成分などという哲学的な用語で考えたりした。

しかし現代に至り、科学が進歩してくると、

生物と無生物という区別は本質的なものではなく、

日常言語の習慣にすぎないことが分かる。

一方に自己複製しない物質がある。

一方に、DNAを持ち、自己複製しつつ、代謝して、時間とともに変化する物質がある。

その中間に、RNAそのものやDNAの断片などが存在している。

ただそれだけのことで、そのどの範囲を生物と呼び、無生物と呼ぶかは、

言語の習慣に過ぎない。

生物という言葉を日常言語から消去しても、困らない。

生と死も似たような状況である。

生きているのですか、死んでいるのですかという、

日常言語は粗雑すぎる。

生から死への移行には、各臓器において、また各細胞において、無限の段階がある。

ただそれだけのことである。

それを、日常言語の習慣に従って、粗雑に描写しているに過ぎない。

似たようなことは昔からいくつも議論がある。

たとえば、

砂山のパラドックス。

砂山から砂粒を個々に除去していくことを想定する。

「砂山は膨大な数の砂粒からできている」(前提1)

「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」(前提2)

前提2 を繰り返し適用したとき(つまり、毎回砂山の砂粒数は徐々に減っていく)、最終的に砂山の砂粒が一粒だけになる。前提2 が真であるなら、この状態も「砂山」だが、前提1 が真だとすれば、このような状態は「砂山」ではない。これが矛盾である。

いろいろと解釈があるようだが、

つまりは砂山というものの日常言語の習慣の問題に過ぎない。一粒ずつ砂が少なくなり、最後には一粒になる。それだけのことである。

またたとえば、テセウスの船。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

これは同じとということばの習慣によるのであって、

真実は、徐々に部分を更新しているという時間経過があるに過ぎない。

おじいさんの古い斧というのもある。「刃の部分は3回交換され、柄は4回交換されているが、同じ古い斧である。」

これも、同じという言葉がどのように使われるのかという問題だけで、

徐々に部分を更新しているという時間経過があるに過ぎない。

精神の異常と正常についても、日常言語の習慣を言っているのか、

精神病理学的な内容をさしているのか、区別が必要である。

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テセウスの船やおじいさんの古い斧の現代的バージョンとして、

人間の身体パーツを次々に交換していった場合、

最終的に自己同一性はどうなるかという問題がある。

スワンプマンの話とか、哲学的ゾンビの話とかにつながるのだけれど、

ちっょと考えただけで、脳以外の身体パーツを取り替えただけでは、

自己同一性は保持されるはずだ。

臓器移植しても、その人はその人だ。

脳も、小脳とか、運動系を入れ替えただけでは、人格は保持されるだろうと思われる。

問題は、記憶と情動と判断である。

過去の記憶と情動反応、そして、価値判断システム、

それこそは、その人らしさの中核だろう。

物質としての脳神経細胞そのものは、分子が時間とともに置換されることも考えると、

分子としては交換可能なものであり、

情報が保持されていればいいと考えられる。

だとすれば、脳の情報系をすべて外部に書き出して保存すれば、

自己同一性は保持されることになる。

非常に複雑で現状では難しいけれども、

すべての神経細胞の特性を記述して、シナプスの結合を記述すれば、

ある信号が入力された場合の、出力をコンピュータで代用できる。

そして、一つ一つのステップを記録して、必要に応じて更新していくことにすれば、

学習するコンピュータになり、

そこに、適切な程度の錯誤を加えれば、

それはもう、自分と言ってもいいだろう。

ある入力に対して、全く同一の出力をするものがあれば、

それが脳であってもコンピュータであっても、

情報系としては同じである。

そんなわけで、哲学的ゾンビが考えられ、スワンプマンが考えられ、

さらには水槽の脳が考えられ、ここでマトリックスに話がつながる。

水槽の脳は、現実に世界を知覚して運動しているわけではない。

知覚神経に信号が送られ、運動神経からの出力に対して、さらに知覚神経への入力がなされる。

それで多分、脳は生きていると感じるのだし、何の不足もない。

もちろん現実には不可能で、原理的に可能かどうかという思考実験の話である。

ここまで話を展開しておいて、

異常と正常の区別に戻ると、

脳という情報システムの全体を、

たとえばコンピュータのような別の情報システムに移植した場合に、

「異常」もそのまま移植されるのだろうか?

そのまま移植されるならば、そこで意味されている「異常」とは、

単に、環境との不適合というだけで、

極端に言えば、共産主義ソ連で、自由経済の優位を主張する「異常者」の意味での、

「異常」に過ぎないのではないか。

あるいは、現状の物理法則の世界とは不適合というだけで、

人間が火星に住むようになったら、

あるいは、重力のヘリのような特殊な環境に置かれた場合には、

むしろよい適応を示して、「正常」になるかも知れない。

論理の面で、たとえば矛盾律の崩壊も、それに適した世界があるのかもしれないし、

自我障害にしても、それに適した世界があるのかもしれない。

他の情報システムに原理的に移植不可能なような壊れ方

というものを、真実の「異常」と認定すべきではないか?