米原万理「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」

米原万理の本に驚いたので、
続けて「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んだ。


この人には書きたいことが確実にある。
そして文章の密度が濃い。
川端康成のような文章の繊細さとは対極のような、
事実の持つ重み、情報の持つ力、そうしたものに語らせている。


「西側とロシアの、才能に対する考え方の違い。
西側では才能は個人の持ち物で、才能ある者をねたみ引きずりおろそうとする人が多すぎる。
ロシアではみんなの宝。才能がある者は無条件に愛され、皆が支えてくれる。」


バレエは最も貴族的で総合的な芸術だと思うが、
それが現代の貴族の国、アメリカでよりも、
共産党時代のソ連で最もよく保存され発達した事実を私は思い出す。


時代、歴史、政治と、一人一人の具体的な人間。


私は最後の話、「白い都のヤスミンカ」が一番おもしろいと思った。
この少女によく似た人を知っているというのも、おもしろいと思った一つの要因だろう。


嘘つきアーニャの話の中に出てくる、
アーニャがミルチャについて論評する部分がおもしろい。
小説の主題とは少しずれる興味なのだけれど。
一人の人間から見れば、ある事実は明白で、事実に対する評価も明白であると思える。
しかし別の人間から見れば、それを全く覆してしまうほどの事実関係の認定のと違いもありうるし、
評価の違いもあるということだ。


これはどうしたことなのかと思わざるを得ない。
無論、我々はすでに幼くはないし、成長途上の人間でもないのだから、
それぞれの立場を理解した上で、
その立場から見れば、このような事実認定と評価だろうと、先回りして評価できるし、
そうした幅を持って思考することができる。


しかしまれに、現実がそうした幅を超えてしまう場合がある。
その場合、まず第一感は、精神の異常ではないか、あるいは情報操作ではないか、嘘ではないか、
などと疑うのだ。


ところが最近はそのような意外な場面に遭遇することが多くて困る。
私の「常識」の範囲が狭くなってきたのか、
世間の現実の方が広くなってしまったのか、
理解できないでいる。


アーニャが自分の立場について、自覚していないこと。
共産党は富の分配について公平であることを目指して出発したはずなのに、
現実には新たな特権階級を作り出し、他ならぬ自分たちがその特権を享受していること。
自覚しないアーニャについて、どのような心理的仮説が成り立つものか。


普通に考えれば、アーニャのような精神は存在しようがないし、
現実に存在するとすれば、まず第一には精神病理学的な理解が要請されるのだろうと考えられてきた。
しかし現代はそうではない。
アーニャのような人たちは意外なことに沢山いるだ。
自分のことを反省もしないし、自己主張は強烈に強い。
試験を受ければいい成績を取る。


私には理解できない世界が広がりつつあるのだと感じている。