過去と未来の非対称 適切な「世界モデル」

過去について後悔するときも過去の結果はすでに確定されていて、
その動機や心理的メカニズムだけが不明である。
変更可能なのは解釈だけである。

未来について推定するとき、
動機や心理的メカニズムがまず未定であり、
さらにその先の結果については、その上にも未定である。

事柄の動機や心理が分からないという点では共通である。
結果が分かっていないのが未来で、分かっているのが過去である。

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一体どういうことかといえば、
人間が長い時間をかけて脳の中に構築するのは、
世界のミニチュアである。
「もしこの場面でこの人にこう言ったら、話はどう進むだろうか」と考える。
シミュレーション機能である。
その場合に、「世界の模型」に仮に入力してみて、その出力結果を見てみるのだ。
ここでは「その人に話す」という入力が、どのような結果となって出てくるか、予測する。

高級な「世界の模型」を持っていれば、予測は正確になる。
安定した心理で世界を生きることができる。

雑でいい加減な「世界の模型」しかないと、世界のことはなかなか理解できない。
世界は、意外なことが次々に起こる不思議な場所で、
人間は不可解で、理解も了解も不可能なものと感じられるだろう。
意外なことを言われて、わけが分からないというのは、このタイプになる。

世の中に渦巻いているいろいろな不満や非難や怨嗟の声は、
それが予想外のものだったから、語られるのだろう。
予想の範囲内であれば、はじめから対処しているはずである。

対処できなかったのは、
自分の側の「世界モデル」が適切でなかったか、
相手の側の「世界モデル」が適切でなかったか、
どちらかなのであって、
自分の側の「世界モデル」が適切でない場合には、不満は何度も続くだろう。
相手の側の「世界モデル」が適切でない場合は、何度も続くとは考えられない。
不幸な場合にも、二度、三度までだろう。

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過去に体験したものについて、
その心理プロセスを分析して、
今後に役立てるのは、
骨の折れる作業である。
これまでの自分の「世界の模型」を変えなければならないが、
どう変えたらいい分からないのが現実である。
どう変わったらいいか分かったときには、
すでに変わっているのだと言ってもいい。
理解することと変わることはほとんど同時に起こる。

未来に経験することに関して、
心理の仮説を立て、
現実がその通りに行くかどうかをみることは、能動的学習そのものである。

仮説を立てて成功すれば採用すればいいし、
成功しないなら棄却すればいい。
そのようにして繰り返して行けば、
真実の束が残る。それが脳というものだ。

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過去について考えるとき難しいのは、過去そのものは変えようがないからだ。
したがって、過去についての解釈を変えるしかない。
しかしそれはそれほど簡単ではない。

その過去があって、現在の「世界モデル」が出来上がっているはずで、
いったん出来上がったものを部分的にでも壊して、組立て直すのは難しいはずなのだ。
むしろ、これから新しい回路をつくるつもりで、新しい解釈のもとに新しい結果を採集したら、
そのことを「世界モデル」の最新部に付加すればよいのだ。

つまり、過去を後悔して解釈を改変するのは、
すでに出来上がっている建物を改造するようなもので、大変だ。

未来を心配して恐怖している場合は、
いずれにしても新しい経験を屋根の上にさらに新築するようなもので比較的たやすい。

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長々と述べたように、取り返しのつかない過去について悩むほうが、
恐怖の対象である未来の一場面を空想しているよりも、
ずっとつらいはずだ。
恐怖の対象は実際に怖い、しかしただそれだけである。
取り返しのつかない過去について、自己の内部の「世界モデル」を変更するのはかなり苦痛である。
それは本人が本人であることの中枢部分を変更することであって、
当然アイデンティティくらいシスに直結する。

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世界モデルがある程度正しければ、
精神病的な深い病理になるはずはない。
多少の不適応は生じることもあるだろうが、それは現実的範囲にとどまっており、
現実検討力は保たれている。
中核にある「世界モデル」はあくまで正しいのである。

世界モデルがかなり現実とずれてしまえば、
人間は自分の中枢だけは否定することができないので、
必然的に外部の世界の側を否定することになる。
これが精神病である。
現実検討能力の破綻ということになる。

過去を知って「世界モデル」を改変するというが、
それはまさにその人そのものとも言えるので、
改変は難しい。

未来について、予測と修正というプロセスを適用するなら、
合理的であるし、むしろ成長の原則と言えるだろう。

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さて、最近のうつ病は、メランコリーモデルと異なっていて、
会社が怖くて出社できない、
上司に怒られたので怖くて出社できない、
自分は悪くない、会社が悪い、
会社を休んで趣味のことをしていれば、
息を吹き返す。
あるいはそのような組織には未練がない。
さっさと辞めて、次の就職を考える。

この場合は、
「世界モデル」がずれていて、
しかも、過去について反省せず、
つまり自己モニタリングができないまま、
自分の世界モデルは壊れていないと確信し、
相手の世界モデルが壊れていると仮定している。

ずれている「世界モデル」と合致する世界を探しても
多分見つからないだろう。

「世界モデル」が現実とずれているならば、
将来の予測は外れることが多くあり、
未来について恐怖することとなり、
その屈辱に耐えられないということになる。
しかしその経験から学んでもらえばよい。
未来のことは学習できる。

おおむね、経済と体力に余裕があるうちは
自分の「世界モデル」を壊す必要はないようだ。
転職したり休んだりしていればよい。
いよいよ経済も体力も限界に来たとき
妥協する必要に迫られる。
しかしそれもいいことなのだ。
それではじめてその人の内側の「世界モデル」は修正される。

過去を反省するときには学習機能とは少し違うので、
難しい。
いったん自分を解体する必要がある。
メランコリー型うつ病のつらいのはそこだろうと思う。

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正しい「世界モデル」を持っている人と、もっていない人。

正しい「世界モデル」をもたずに未来に向かえば恐怖症になる。
未来については学習ができる。「世界モデル」は変更可能である。

正しい「世界モデル」をもたずに過去を回顧するなら、取り返しのつかない後悔となる。
その人は過去の結果を知っている。それは変えようがない。
その他の結果が可能だったのにいまとなっては不可能である。

正しい「世界モデル」を持ってもらうことが治療である。

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未来については仮説を検証し採用するか棄却するかを決め、
修正して再度検証すればよいので、
脳のトライアンドエラーの原則にかなっていて、
病理としては深くないと思う。

過去の後悔については、
そのときは適応的な行動だったはずで、
今も多分人からはほめられるような行動だったのではないかと思う。
だからこそ変える手がかりが見つからない。
その点で病理は深いのだと思う。