ネット社会がどうして問題社会になったか

たとえばネット社会では日本語が使えなくて、
しかも技術的にかなり専門的な人でなければアクセスできないものだったとしたら、
誹謗中傷や人を自殺に追いやる発言はあっただろうか。

誰にでもアクセス可能でしかも匿名可能であると思ったとき
そのようになるのは必然なのだろうか。

それとも現代人の一部の層では
鬱憤がたまっているということなのだろうか。

はき出す場所としてなぜネット社会なのだろうか。
友達もいない?

悪口を他人にも聞かせたいというのはどのような心理なのだろう。
必死で賛成して欲しいのではなくて、
攻撃している自分にうっとりしているような自己愛性の心理なのだろう。

友達や親や兄弟はなぜやめさせないのだろう。
知り合いのたった一人もその人の書き込みを見ていないのだろうか。

そして日本ではその人の友達が死んでしまった。
韓国では女優が死んでしまった。

女優は女優であるというだけで
どんな書き込みも我慢しなければならないのだろうか。
そんなはずはない。

主には反撃の有効な方法がないということが困難の一つなのだろう。

ネット社会の悪い面ばかりがどんどん拡大されてゆく感じだ。

便利に有効なものとして使っている人たちには
あまり関係のない話である。

実社会で問題を起こす人はネット社会でもやはり問題を起こしがちだろうと思う。
むしろ実社会でおとなしい人たちの一部が
ネット社会で他人に迷惑をかける存在になってしまうことが
不思議な問題だということになるだろう。

対面場面では抑制されているものが、
ネット場面では抑制されない、そういうことになるだろう。

場面による人格の著しい違いは、
場面緘黙とか
多重人格とか
内弁慶とか
重いものも軽いものもいろいろとある。
その一つと考えていいのか。

ネット社会に入り込んだときにどうしてそのような迷惑な存在になってしまうのか、
謎がある。
その前提として、その人の場合は、実社会とネット社会がかなり切れていると考えられる。
実際に顔を合わせている人たちがその書き込みを見ているとしたら
実社会での自分とあまりにも落差のあるものは書けなくなるはずだろう。

よく分からないながら、そのようなタイプの問題のある人が
ネットの特性を利用して集まってしまい、より先鋭化するのだろう。
自分たちの悪さを鍛え合うようなところがあるのだろう。
ある種の純粋培養器である。