人格障害タイプとネット社会の特性

各人格障害のタイプで
ネット社会にどう反応しているか描き出すこと。

自己愛の何を拡大するか、何を癒すか。
ボーダーの何を拡大するか、何を癒すか。

統合失調症や感情障害、また発達障害において、
ネット環境はそれぞれをどのように症状修飾し、治癒修飾しているか。

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とりあえず問題点だけメモしておこうと思ったら、
いろいろと発展的な話があった。

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自己愛的全能感とネットがぴったりシンクロしていることはよく分かる。
ネットでは全人格をさらけ出す必要はないので、
自分の都合のいい部分だけを露出していればいいから、
本質的な傷付きも回避しながら何とかやっていける。

例えていえば8丁目の夜のバイトだ
適当に楽しい嘘をつくのも仕事のうちだ
ネットでは8丁目のバイトよりももっと
自分を隠してしまえる

ネット社会化というのは
要するに社会全体が
お水になって
恋愛体質になっているということなのかもしれない

スポーツがどのくらいできるかとか
ルックスがどれだけいいかとかは
専門家にきかなくても
おおよそ判定できる。
絵にしても独自か否かは意見があるとしても
うまいかどうかは誰が見ても明らかという場合が多い。

しかし例えば詩的な才能とか
論理の才能とかレトリックの才能とか
なかなか微妙な話になると
誰にでも明白ではないし
特に自分の才能ではダメだと
はっきり納得するまでに時間がかかったりする。
恋愛になれば特に微妙で
気があるのではないかと思わせて引っ張るのが商売だ。

ネットの世界はぐずくずとモラトリアムを過ごすにはいい場所なのだと思う。
だって、
ネットの世界に行けば、
自分よりもっとだめな、才能のない人たちが、偉そうなことを言い合っているのであって、
それを目撃してしまえば、自分はもっとましだと思うだろう。
そして実現しない希望、実現の仕方も分からない希望を抱えながら
時間を空費する。

そのあたりはまさに8丁目の擬似恋愛族がテクニックを競っている部分である
結論を先延ばししながら現状維持をして
またお酒を飲ませ
同伴したように見せかけて、食事はせず、店の前で待ち合わせだけして同伴を付けるのだし、
アフターなんて延ばし伸ばしである。

男が格好つけようとして同伴に誘う店は決まっていて、
大体まずくて高くてマスコミで有名な店で
みんな同じくらい馬鹿なんだと分かるくらいで
食べないで店前で回してしまう。

それってネット恋愛的感覚だ。
本気にならない。どうでもいいテクニックを競う。最終的にはお金に換算される。
しかしそのお金もくだらない化粧品とかネイルとか旅行とか英会話とかそんなものに
無駄に使われる。
中にはしっかりした人もいて自分の店を持ったりするのだけれど
しっかりしていれば寂しいもので
それにぴったりの悪い男がついて
世間でよくある話になる。
しっかりしている分、きつく傷つく

昔は8丁目が竜宮城で
いまはネットが竜宮城なのだ。

しかしいつか部分的空想的全能感は不全感を感じ始める。
全体的全能感であってほしいと思うようになる。
また現実的全能感であってほしいと願うようになる。
欲望が暴発して他人に見えることになれば、誰にも分かりやすい事例になる。

そこの限度を忘れてしまえば病気の部類になってしまうのだが、
それでも、どうしても、部分的全能感では不完全なのである。
どうするか。
なかなか難しいと思う。

不完全を不完全なままで生きるか、
不完全を現実の完全なものに変える一歩を踏み出して傷つき、そのことと引き換えに大人になるか。

自己愛の幻想にくるまれながら
人はいかにして成長できるのかという問題にもなる。
全能感に満たされているうちは成長はしなくていい。
そのままでいいのだ。
だから引きこもっていてもいいのだ。
時間を浪費していてもいいのだ。

しかしある日学校から通知が来る。
会社から電話が来る。
現実を突きつけられる。
浦島太郎はおしまいになる。
気がついてみると、周囲の同期はずっと前に進んでいる。
勉強は遅れているし、技能の習得も遅れている。
話題も実は遅れてしまっている。
浦島体験である。

ネット社会で情報を取捨選択している限りは、
見たくないものは見なくてすむのであって、
だから幻想の全能感に包まれて、
浦島太郎的幸福のなかに生きていられるのである。
ネットの向こうで微笑んでいる魅力的な娘はあなたのために微笑んでいるのではない。

たったそれだけのことを知るまでに何年もかかるらしい。
それが自己愛タイプの人である。

おれはナンバーワンじゃないけど
オンリーワンなんだと
自己愛の人はいう。
価値のあるオンリーワンなのか?と問うと、
結局、世の中でどれだけの価値があるのかということになり、
どぎつく言えば、それはみんなに認められて、
ゆくゆくはお金にもなりそうなオンリーワンなのかということなのだ。
そうじゃないけどオンリーワンなんだというのは、
浦島太郎の発想であって、
その先はなかなか難しい。

みんな生活があるんだということを
納得して受け入れることが
大人になるということだ。

そういえば
ネットのなかには生活はない。
夢だけがある。

それはいいことでもある。
大事なことだ。
しかしそれだけではよくないことも知ってほしい。

ネットで記事を書いている偉い先生たちは
浦島太郎ではない。
現実の仕事を持って
適当に文章を書いてかなり稼いでいる。
読むだけの人やただで書いている人と同じではない。
浦島太郎的気分を上手に商売にして
現実にお金に変えている人たちなのだ。
いいのか悪いのか分からないが
世間とはそういうものだ。

たとえばフリーターやニートの評論をしている人たちも
立派な肩書きを持っていて
実際は生活に困っていない。
あるいはかつて困っていたが現在はニート評論家になっていて
むしろニートがいるから生活ができている、
ニートが飯のタネなのである。
そんな事情もやがて分かるのだろう。
一時はたぶん崇拝さえしていると思う。
そんなものだ。