Bastiatの「見えるものと見えないもの」

www.mind-trek.com/treatise/fb-twins.htm から訳出
見えるものと見えないもの
フレデリック・ バスティア 1850
 経済の領域では、行為や習慣、制度や法律は単一の結果を生み出すだけでなく、結果の
連続を生み出す。これらの結果のうち、最初のもののみが直截的なものであり、それは原
因と同時に明らかとなる―――それは見えるのだ。その他のものは連続のうちに隠れてい
る―――それらは見えない。もしそれらが我々にとって予見できるのであれば結構である。
良い経済学者と悪い経済学者の間においては、このことがまったくの違いとなる―――片
や見える結果について考慮し、片や見える結果についてだけでなく、予見する必要のある
結果についても考慮するのである。さて、この違いは巨大なものである。なぜなら、ほと
んど常に、直後の結果は好ましいものである場合、その究極的な結果は致命的であり、そ
の反対もまた真なるからである。よって、悪い経済学者は、その後に大いなる悪を呼ぶ小
さな現在の善を追求するということになるからである。その反面、本当の経済学者は来る
べき大いなる善を、現在の小さな悪と引き換えに追求するのだ。
 事実、これは健康の科学、芸術、そして道徳についても同じである。最初の習慣の結果
が甘いほど、その結果は苦いものであるということが頻繁にある。例えば、放蕩、怠惰、
浪費をとりあげてみよう。その見える効果に酔いしれている人が、未だに見えないものに
ついて認識する必要がある時、その人の性質によってだけでなく、計算によってさえも致
命的な習慣に屈してしまう。
 このことは人類の致命的に嘆かわしい状況を説明する。無知はそのゆりかごを包囲して
おり、その行動は最初の効果、最初の段階で見えるようなものだけによって決定される。
その他の効果を考慮することを学ぶのは、長期においてのみなのである。人はこの教訓を
二つのひじょうに異なった主人から学ばねばならない。それは経験と先見である。経験は
効果的に教えてくれるが、そのやり方は荒っぽい。我々は、無理やりに感じさせることに
よって、ある行動のすべての結果を知ることになる。もし火に入れば、火がこがすもので
あることを知らないことはできないのだ。この荒っぽい教師を、もしできることなら、私
はもっと心やさしいもので代用したい。つまり、先見だ。この目的をもって、これからあ
る種の経済現象の結果を、見える結果と見えない結果を対置することで検討してみよう。
1、壊れた窓
 気のいい店主であるジャック・ボノムが、彼の息子が不注意にもガラス窓を割ってしまっ
た時に怒ったのを見たことがあるだろうか?そういう場合に居合せたなら、そこにいるす
べての目撃者が、それが30人にも上ろうが、明らかに常識として、この不幸な店主に決
まり切った慰めを口にするのを、確実に見ることになるだろう。それは「みんなにとって
悪をもたらす風が、本当に悪い風というものなのだ。誰しもが生きる必要があるが、もし
ガラスが決して割れなかったら、ガラス屋はどうなるのだ?」というものだ。
 さて、このような形の慰めは、この単純な場面に十分に表れているような、全体的な理
論を含んでいる。不幸にもそれは、我々の経済制度の大部分を支配しているものと完全に
同じであるようなものである。
 ガラスを直すのに6フランが必要だとして、その事故はガラス業者に6フランの取引を
もたらしたと言う――6フランの取引を促進したのだと――。私はそれは認めよう。私は
それに反する言葉を持ってはいない。その理由づけは正しいのだ。ガラス屋が来て、その
仕事をして、6フランを受け取り、手を拭いて、不注意だった息子に内心では感謝する。
これらのすべては見えるものだ。
 しかしその反対に、よくあることだが、もしあなたが窓ガラスを割るのは、お金が回る
という点でいいことであって、その結果が一般的に言って産業の振興になると結論するの
であれば、私はそれに対して叫ばねばならない、「ちょっと待て!あなたの理論は見える
ものに限定されている。それは全く見えないものを考慮していない。」
 店主ジャック・ボノムがあることに6フランを使い、その他のことには使えないという
ことは見えないことだ。彼が窓を取り換えなくても済んだのなら、たぶん彼は古びた靴を
買い替えたか、あるいは蔵書棚にもう一冊を加えたことだろう。つまり、彼は6フランを、
事故によって実現しなかった、異なったものに利用できたのである。
 この状況によって影響を受けた、一般的な産業について吟味してみよう。窓が割れ、ガ
ラス屋の取り引きは6フラン促進される。これは見えるものだ。もし窓が割れなかったな
ら、靴屋の取り引き(または別のものの取り引き)が6フラン促進されただろう。これは
見えないものである。
 そしてもしプラスの効果を持つ見えるものと同じように、マイナスの効果を持つ見えな
いものを考慮に入れるなら、窓が壊れようが壊れまいが、一般的にどの産業も、また国民
労働の総合計も影響を受けないことが理解されるだろう。
 そしてジャック・ボモム本人について考えてみよう。もし窓が割れたという前者の場合、
彼は6フランを支出するが、窓から得られる恩恵は以前よりも多くも少なくもない。
 窓が割れなかったという第2の場合、彼は6フランを靴に支出して、窓と靴からの恩恵
を同時に享受することになっただろう。
 我々が「社会は、無意味に破壊されたものの価値を失う」という予期せぬ結論に至ると
き、我々は、保護主義者の髪を完全に逆立てるような格言に同意せねばならない。壊す、
ダメにする、ムダにする、というのは国民労働を促進することはない、あるいは、もっと
簡単には、「破壊は得にならない」。
 あなたはなんと言うのか、ミスター産業さん。パリを焼き払った場合に再築が必要とな
る家の数から、非常に正確にいくらの取り引き上の利益があるかを計算した、良きM・F・
シャマンの弟子たちよ、あなたたちはなんと言うのか。
 これらの天才的な計算を混乱させたことは申し訳ない。なにせその精神は我々の立法に
も及んでいるのだから。しかし、私は彼に、見えるものと同時に見えないものをも考慮に
入れて、もう一度計算することを乞う。読者は、2人の人がいるだけでなく、ここで提出
された小さな状況には3人が関係していることに注意なければならない。その一人、ジャ
キク・ボノムは消費者を代表しており、窓の破壊によって、一つの恩恵にしか与れなかっ
た。もう一人のガラス屋として登場したものは生産者であり、事故によってその取り引き
が促進された。3人目は靴屋(あるいは他の業者)であるが、その労働は同じ原因によっ
て同程度に害された。この3人目こそが、常に陰に隠れてしまうのであり、見えないもの
を体現しており、この問題に必要な要素なのだ。彼こそが、破壊行為に便益を見るという
我々の思考が、いかにバカげたものかを示しているのである。彼こそが、結局は部分的な
破壊でしかない規制というものを便益だとすることが、同じほどにいかにバカげているか
を教えてくれるのだ。よって、有利な証拠とあげられた議論の根本に遡るなら、見つかる
ものすべてが次の通俗的な物言いの言い換えでしかない――もし誰一人窓を壊さなかった
ら、ガラス屋はどうなってしまうのか?
2.軍隊の解散
 一つの民族に当てはまることは、一人の人間に当てはまることと同じである。ある民族
が満足を得ようというのなら、その費用に値るするかを考慮しなければならない。国にとっ
て、安全保障というのは最重要事項である。もし、それを確かにするために10万人の軍
隊が必要であるというのなら、私はそれに対して何の反対もしない。それは、それだけの
犠牲の上に成り立つ安楽なのである。私の主張の範囲については誤解しないでいただきた
い。ある議員が1億人の納税者の負担軽減のために、10万人の軍隊を換算しようと提案し
た。
 仮に私たちの答えが次のようなものにとどまるのなら、――10万人の軍隊と、数100億
の金は国家安全のために不可欠である。確かにそれは犠牲を伴うが、その犠牲なしにはフ
ランス国家はバラバラに引き裂かれてしまうか、他国の侵略を受けるだろう――私はこの
議論、それが事実正しいかもしれないし、正しくないかもしれないが、それが経済に悪い
影響を与えないことから、それには何ら反対しない。間違いが起こるのは、犠牲そのもの
が誰からを利するものであるから利点なのであると主張されるときだ。
 さて、先ほどの提案者が席に戻って途端、別の演説者が立ち上がって、次のように発言
しなかったとするなら、私は非常に勘違いしているのだろう。「10万の軍を解散するだっ
て!あなたは自分が何を言っているのか、分かっていのか?彼らはどうなるのか?どこに
行って生計を立てるのか?どこでも職などは滅多にないことを知っているのか?すべての
牧場は人手あまりなのだ?あなたは、彼らを放り出して競争を過当にし、賃金を引き下げ
ようとするのか?今現在、生きることそのものが難しい中で、10万人のために国家が生
活をさせてやら中ればならないというのは、なかなかに結構なことだろう。さらに、考え
て見たまえ、軍はワイン、衣服、武器、――それらは駐屯都市の産業活動を促進するだろ
う――を消費する。そして、つまりそれは神の使わした大量の食糧調達者なのだ。いった
いなぜ、この巨大な産業的運動を捨て去るという単なるアイデアに震えなければならない
というのか。」
 この論説は、明らかに、サービスの必要性と経済的な考慮から、10万人の軍隊の維持
に賛成することで結語する。私が論駁するのは、これらの経済的考慮のみである。
 1億ものお金を納税者のコストとする10万人の軍隊は、生活して1億フランで買えるだ
けのものを調達者に持たらす。これは見えるものだ。
 しかし、納税者の財布からとり上げられた1億フランは、その限度において納税者の元
での購入はできなくなる。これが見えないものだ。ここで、計算してもらいたい。合計し
て、人々にとってどんな利益があるというのだろうか?
 どこに損失があるのかを指摘しよう。議論を簡単にするために、10万人と1億フランに
ついて語る代わりに、1人の人間と1000フランにしよう。
 ここで、我々がA村にいたとしよう。リクルート隊員が巡回して、1人の男を連れて行っ
た。徴税官が同行し、1000フランを徴収した。男とお金はメス市に行き、お金は男を1年
食わせるだけに使われた。メス市についてだけ考えるなら、あなたの考えは正しい。その
方法は非常に有益である。しかしA村について考えるなら、異なった考えを持つだろう。
なぜなら、盲目でもない限り、村は1000フランの消費によって広がったはずの経済活動
を失っていると同時に、1人の労働者とその労働報酬である1000フランを失っていること
が見えるからである。
 一見して、これには補償があるように感じるかもしれない。村でおこったはずのことが、
メス市で起こっている、それだけだというのだ。しかし、損失は次のように計られなけれ
ばならない――村では男は穴を掘り、働く。メス市では、彼は右を見たり、左を見たりす
る。彼は兵士なのだ。金銭とその循環は2つのケースで同じである。しかし、一方では
300日間の生産労働が存在し、他方では、300日間の非生産的な労働がある。もちろんこ
れは、軍隊のある部分は公共の安全には不可欠ではないと考えてはいるのだが。
 ここで、軍の解散が起こったとしよう。あなたは10万人の余剰労働者が生じ、競争が
刺激されて、賃金が低下するという。これは見えるものだ。
 しかし、見えないものは次のものだ。あなたは、10万の軍を解雇するということは、
100万フランを捨てるということではなくて、納税者に返すのだという点を見ていない。
10万人の労働者を市場に投げ出すということは、同時に、それらの労働者の支払いに必
要な1億フランもまた市場に投げ出すということだ。結果的に、人手の供給を増加させる
ということそのものが、重要もまた増加させるのであり、賃金の低下のおそれが幻想だと
いうことを見ていない。軍隊の解散以前にも、以後にも、国内には1億フランと、それに
応じた10万人の男がいることを見ていない。すべての違いは次のような点にある。解散
前には、国は10万人の兵士に1億フランを何の対価もなしに配っていた。解散後は、彼
らに同額を労働の対価として与える。つまり、あなたが見ないのは、納税者がその金を兵
士に無償で与えるか、商品と交換に労働者に与えるかという場合に、この貨幣流通の究極
の結果のすべてが、この2つのケースで同じだということであり、ただ2番目のケースで
は納税者は何かを得るのに対し、1番目のケースでは何も受取らないということなのだ。
その結果は、国としての完全な損失なのだ。
 私がここで戦っている謬論は、理論の試金石となる、論理の拡大テストに耐え得ない。
もし、すべての補償がなされ、利害関係者が満足した場合に軍隊を増やすのが利益になる
のなら、なぜ国中の男を入隊させないのだろうか?
3.税
 もしかして、あなたは次のような発言を聞いたことがあるだろうか。「税は最高の投資
なのだ。それによってどれだけの家庭が生活しているのかを見て、そして税が産業に与え
る影響を考慮するだけで良い。それは尽きることのない流れであり、生命そのものなの
だ。」
 この教説に反対するには、私が前述した否定法に言い及ばなければならない。政治経済
は、この議論をあまり好ましいものだとは感じない程度には発達しているので、こういっ
たことが言われるとき、繰り返しによって好ましくなる。よって、口頭での繰り返しが教
えるため、この考えは独自性を獲得し、納得されるのである。
 役人が勧める利点というのは、見えるものだ。その提供者に生じる利益もまた、見える
ものである。これがすべの目を見えなくするのだ。
 しかし、納税者が取り除けない不利益は、見えないものだ。そして、税が持たらす納税
者への被害もまた、自明なものだとは言え、見えないものである。
 役人がその利益のために余計な数フランを使うとき、それは納税者がその利益のために
数フラン少なく使うということを意味する。しかし、役人の出費は実行されるために見え
るものであるが、納税者のそれは、嗚呼、彼はそうすることを許されなかったために見え
ないものなのだ。
 おそらく、あなたは国家を干上がった土地にたとえ、税を肥料となる雨にたとえる。そ
うするのも良い。しかし、あなたはその雨の原因を自問しなければならない。もしや税そ
れ自体が大地から湿気を奪い、乾き切らせているのかを。
 またしてもあなたは、土が雨によって、そこからの蒸発と同じだけの貴重な水を受け取
ることができるのかを自問する必要があるのだ。
 一つ非常に確かなことがある。それは、ジャック・ボノムは徴税官に数百フランを計上
しても、見返りに何も得ないということだ。結局、役人がその数百フランを使って、ジャッ
ク・ボノムに返すというとき、それは同じ価格のコーンや労働の代わりにである。最終結
果は、ジャック・ボノムの5フランの損失である。
 確かに、多くの場合、多分、非常に多くの場合、役人はジャック・ボノムのために相応
なサービスを提供しているというのは真実だ。この場合、双方に損失はなく、単なる交換
があるだけである。よって、私の議論は、有益な役人についてはまったく当てはまらない。
私が言っているのは、もし役所を作りたいのなら、その有用性を証明せよということなの
だ。ジャック・ボノムに対する役所の価値が、彼へと提供されたサービスによって、その
費用と等しいことを示せ。しかし、こういった内在的な効用から離れて、役所がもたらす
役人やその家族、その取引業者にもたらす利益といった議論を持ち出してはならない。そ
して、役所が仕事を生み出すという主張はしてはならないのだ。
 ジャック・ボノムが本当に役に立つサービスの対価として百フランを政府の役人に支払
うとき、それは彼が百フランを靴を買うために靴屋に支払うのとまったく同じだ。
 しかし、ジャック・ボノムが政府の役人に百フランを支払って、迷惑以外の何ものも受
け取らなかった場合は、それは泥棒に与えたのと同じだ。政府の役人がその百フランを国
民労働の大いなる利益のために使うだろう、などと主張するのはナンセンスなのだ。泥棒
も同じことをするだろう。そして、もしも彼が路上で余計な寄生的官憲に、あるいは合法
的なハイエナに呼び止められなかったら、ジャック・ボノムだってそうなのである。
 それなら、見えるものだけで判断するというのは避けて、見えないものによっても判断
するように、自分たちを習慣付けようではないか。
 去年、私は財政委員会の一員だった。なぜなら、有権者の賢明な判断によって、投票に
おいて野党党員がすべての委員会から組織的に排除されるということはなかったからだ。
委員会では、「彼らのもの」氏が次のように述べたのを聞いた、――「私は正統派や宗教
派に反対することに人生を捧げてきた。しかし今や、我々の共通の危機のために彼らとも
交流し、知るようになった。そして個人的に話をしてみると、彼らは私がかつて考えてい
たような怪物ではないことがわかった。」
 その通り、不信は誇張されており、憎しみは互いに交流しない党派から生まれる。そし
てもし、多数派が委員会において少数派の存在を認めるなら、おそらくは異なった党派の
考えもそれほどお互いに離れたものではないということ、そして何より、その意図におい
てはそれほどひねくれてはいないことがわかるだろう。しかし、昨年度、私は財政委員だっ
た。私たちの同僚が、共和国大統領や大臣、大使たちの予算をわずかでも変えようとする
と、必ず答えが帰ってきた――
 「そういった役職の価値のためには、有能な人物を引き付けるべく、ある程度オフィス
を華麗で威厳あるものにする必要がある。共和国大統領には、不幸な人々が大量に陳情に
来るのであり、それを常に拒否する義務を負うというのは、大変な苦痛を伴う仕事になっ
てしまうだろう。ある種の貴族的スタイルが大臣応接室にあるというのは、立憲政府機構
の一部なのだ。」
 こういった議論には反論があるとはいえ、確かに真剣な考慮に値するものである。正し
く見積もられているかどうかはさておき、それは公益に基づいた正しい議論である。そし
て、私の関与する限りでは、狭隘な倹約心や嫉妬に精神に突き動かされている、我々の多
くの指導者たちよりも私の方が強い尊敬の念を持っている。
 しかし、私の経済的な良心に反し、この国の知的資産に照らして私が赤面するのは、こ
のバカげた封建時代の名残が、いつも起こっていることだが、次のように拡大されて、好
意的に受け止められてもいるということだ――
 「さらに、偉大な政府の役人たちによる贅沢というのは、芸術や産業、労働を促進させ
ている。国家のリーダーと大臣たちが夜会を開けば、必ずや社会という体の血管を循環さ
せることになるのだ。そういったやり方を減らせば、パリの産業、そして結果的には国全
体の産業を窒息させてしまうだろう。」
 皆さん、私は皆さんに、少なくともこの計算に対してよく注意してもらわねばならない。
そしてフランス国民議会の前で、恥ずかしいことに議会は、足し算を上から足すか、下か
ら足すかによって合計が違うのだという点において、皆さんとは意見が合わないなどとい
わないでもらいたい。
 例えば、私は下水工事人と、土地に排水溝を百フランで作ってもらいたいということで
合意している。前述したように、私たちの制度では、徴税官が来て百フランを私から持っ
てゆき、内務省に送る。私についてはこれでおしまいだが、大臣はテーブルにもう一皿加
えることになる。一体全体、どういった理由から、この公金支出が国家産業を助けている
というのか? この場合、満足と引き換えの労働という事態とは反対のことしかないこと
が、見えないというのか? 大臣はテーブルをより良いものにした、それは事実だ。しか
し、ある農家がその土地の排水が悪くなったのも、また同じように事実なのだ。パリの酒
場の店主は百フランを得たかもしれない、それは認めよう。しかし同時に、下水工事人が
5フランを得ることができなかったということも認めねばならない。それは結局、次のよ
うなことなのだ、――役人と酒場の店主が満足するということは見えるものだが、排水の
悪いままの土地や仕事を奪われた下水工事人は、見えないものなのだ。なんということだ!
2足す2が4だと証明することが、こんなに大変だなんて。そして証明が成功して、言わ
れるのだ、「そんなことは自明で、本当に退屈なことだ。」そして彼らは、まったく何事
も証明されなかったかのように投票するのである。
4.劇場と工芸品
5.公共事業
7.産業規制
8.機械
9.信用
10.アルジェリア
11.倹約と贅沢
12.働く権利を持つ者は、利益を得る権利を持つ