子どもにとっての当たり前 コミュニケーション耐性

技術は、それが発明される前に生まれた者にとってのみ、技術である。
子どもたちはITも各種メディアも単に最初から当たり前にあったものであり、
当然のように適応していく。

大人と子どものギャップが生まれる。新人類などといわれることもあった。

母親は、ゲーム機が家に来てから、子どもと自分との間に見えないバリアができてしまった気がすると語る。
子どもがテレビゲームをなぜ止められないかが理解できない。
やめなさいというと、言い争いになってしまう。

子どもはネットや携帯を使いこなしているのに、親はついて行けないと感じたりする。

幼児パソコン教室というものもあるらしい。

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確かに、自分も子どもの頃には親が分からないような新しい機械が自由に使えた。
自分の直感によく一致していた。
しかし老年になった最近は、新しい機械を直感的に操作すると期待通りに動かないことがある。
マニュアルを読み直すことになる。子どもの頃はマニュアルなどは必要なかった。
昔のテレビやラジオはそのくらい単純なものだったと考えていた。
しかし最近の子どもを見ると、実に賢く新しい機械に適応しているので、たぶん、直感とマニュアルは一致しているのだろう。

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テレビゲームだけが本当に大好きでたまらない子どもはどのような特性があるか調査した。
共感性が低い、
コミュニケーション耐性が低い、
批判受容耐性が低い、
科学への信頼が大きい、
現実体験を軽視する、
映像思考が強い、(映像志向かもしれない)
人との浅いつきあいを好む、
機械親和性が高い。

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コミュニケーション耐性については以下の引用を参照。

保護者の方へ
このサイト(ホームページ)は、高畑勲・宮崎駿両監督で有名なスタジオジブリの作品について扱っています。基本的にはスタジオジブリ作品の面白さを国内外に紹介し、その作品世界を考察していくことを考えており、掲示板やチャットは、サイトを訪れてくれる皆さんの交流を深めるのに役だってくれればという思いで設置しています。18歳未満に有害と思われるコンテンツは含みませんし、掲示板においても18歳未満に悪い影響を与え得る書き込みがなされないか常に注意しています。

このサイトは、ジブリの世界に没頭して現実から逃避することを推奨するものではありません。ファンがファンとして楽しめさえすればそれで良い、という快楽主義的な方向性を指向するものでもありません。ジブリの作品世界に接することによって、また同好のファンとのコミュニケーションを行うことによって、自分自身の客観的な現在を再確認し、将来の自分についても考えていく機会を持ってもらう機会の一助になればと幸いであると考えております。青春や努力・思いやりの心といった要素は、ジブリ作品の登場人物に代行してもらえば良いものではありません。それらは、たとえ理想ではなくても自分自身の手で体現していくべきものであると考えます。作品中の登場人物がそれぞれに迷い、悩み、努力しながら目標を達成していくように、現実の社会に生きる私達も、迷ったり悩んだりしながらそれぞれの目標を見定めることが出来れば、その目標に向かって頑張っていけることが出来れば、そして成長していく喜びをみんなで共有していくことが出来ればいいな、と思っております。

さて、このサイトで私が作ろうと思ったのは「空き地」でした。誰に気兼ねすることなく、好きなときにやってきて、好きなときに遊び、好きな時に帰ることが出来る、そんな「空き地」を提供しようと思っていました。なぜ、サイトに掲示板やチャットを作ろうと思ったのか、それは失われて久しい「空き地」の機能がインターネットの時代において部分的ながらも復活しているかもしれないと感じたからです。

昔の日本には、街のあちこちに「空き地」がありました。高度経済成長期以前、「空き地」は子供たちの遊び場所であると同時に、社会性を身につける場所でもありました。遊び仲間は年齢が異なるのが普通で、上級生は下級生の面倒を見て、下級生は上級生の姿を観察しながら時と場合に応じた行動のしかたを学んでいました。これを専門用語で「社会化」といいます。「社会化」は、教室で詰め込まれる知識だけで身につくものではありません。むしろ、「空き地」で遊びながら体感的に習得していく性質のものであり、それはすなわち社会性を獲得していく過程そのものであると言えます。

もちろん、昔から「空き地」には様々なトラブルがありました。ケンカもしょっちゅう起きていました。しかし、度が過ぎると上級生からの注意が入り、謝るべき人を謝らせるなどして秩序の回復が図られました。そのようなトラブルの発生と解決への流れを目の当たりに体験していくことを通じて、例えば「どういう言葉を言ったら人を傷つけてしまうのか」といった”加減”を習得していきました。そして、”加減”を知ると、今度は知らない人を注意する立場に回っていきました。”加減”を積み重ねることで他者からの視点が獲得され、「相手の立場に立って考える」習慣も身についていきました。

ところで、時代が下るにつれて「空き地」はどんどん消滅していきました。それは単に物理的な「空き地」がなくなるという意味だけではなく、「年齢の異なる集団の相互作用による社会性の獲得」という大事な機能までもが失われることを意味しました。実際、同じ学年の友達とはよく遊ぶけれども、違う学年の人とはあまり遊ばなくなってきています。同じ学年の同じような考えの友達とばかり遊んでいては社会性はなかなか身につきません。年齢が違い、立場が違い、ものの見方・考え方が違い、知識や常識の習得段階が違った様々な人達と接しなければ「相手の立場に立って考える」習慣は身につきにくいのです。「空き地」の消滅によって年齢の異なる遊び仲間がいなくなり、したがって注意してくれる上級生もいなくなれば、他者からの視点が獲得されず、自己中心的な考えはなかなか改善されません。昨今、「教育崩壊」が叫ばれて社会問題化していますが、その一因として「空き地」の消滅および付随要素の消滅があるのではないかと、私はひそかに考えています。

時代は平成に入り、インターネットの時代になりました。ここで、サイトにおける掲示板やチャットは、バーチャルリアリティといわれる間接コミュニケーションをベースとしていながらも、かつての「空き地」機能が部分的に復活しているのではないかと、私は考えています。すなわち、「年齢の異なる集団の相互作用」の復活であり、その相互作用による「社会常識の習得」機能の復活です。ここでいう「社会常識」は、インターネットにおけるマナーを指します。それはネットワークのエチケットという言葉をつなげて、ネチケットとも呼ばれています。大人ばかりが集まるサイトでは問題は少ないかもしれませんが、小中学生が大勢集まるこのサイトでは、このネチケットを習得していく「空き地」としての機能は大いに注目されるべきであると思われます。

例えば、チャットで乱暴な言葉遣いをするという行為には当然ながら限度というものがあって、限度を超えた場合はトラブルに発展します。そうなった時、もしチャットの参加者に健全なマナー感覚を持った人がいれば、先述のような相互作用の機能が働くことによって、自浄的に問題が解決されていくことは充分に可能なのではないかと考えております。(その意味では、トラブルの解決を管理人に委ねることは、子どものケンカに大人が介入するのに似て、あまり望ましいことではありません。このサイトには管理人の他に管理手伝いの人もいますが、管理者としての立場に頼ってしまうことも望ましくありません。参加者同士がお互いに注意しあい、話し合って納得することを通じて問題の解決が図られることが、最も理想的な展開であると考えます。)

「○○することは管理人がダメと言うからダメ」という強制力で問題を解決しては、自分で考える習慣は身につかず応用がききません。「そこにルールが書いてあるからダメ」という発想で押さえつけては、ルールをすり抜ける方法ばかりを考えてしまいます。何故トラブルが起こってしまったのかを考え、何が問題であるのかを考え、今の例でいえば「○○することは相手を傷つけるからダメ」というふうに相手の立場に立った視点から理解していかない限り、暴言を吐く人は同じことを繰り返してしまうでしょう。

乱暴な言葉遣いは、管理人がダメと言うからダメ・・・・・・・× (何故ダメなのかを考えないから応用がきかない)
乱暴な言葉遣いは、ルールで禁止されているからダメ・・・× (ルールにさえ書いてなければ何をしても良いと誤解する)
乱暴な言葉遣いは、それで傷つく人がいるからダメ・・・・・○ (ダメといわれる理由が理解できるから、応用がきく)

また、暴言を浴びせられて傷ついてしまう人にも、頑張ってもう少し強くなって欲しいと思っています。もちろん、傷つきやすさは人それぞれであり、それは個性の一部なのですが、ちょっとした言葉で簡単に傷ついてしまうようでは、これからの人生が大変です。例えば、風邪を引きやすい子は、部屋に閉じこもったままでいるのではなく、運動して体力をつけて風邪を引きにくい強い体質にすることが、風邪を予防する最も効果的な方法です。これと同じように、多少変なことを言われた位では何とも思わないくらい精神的に強くなることも必要です。これを専門用語では「コミュニケーション耐性」といいます。この「コミュニケーション耐性」をつけることは、出会いの幅が格段に広がったインターネットの時代には特に求められる能力です。

チャットで「お前はバカか?」と言われたとしても、それで簡単に傷ついてしまうのではなく、逆に「あんた私のこと知ってるの?ろくに知らないくせにバカと決めつけるあんたの方がバカよ!」と言い返せるくらいの気構えを持って欲しいものです。バカと言い返された方もそれなりにショックを受けて、相手の痛みが分かるようになってくれるかもしれません。

掲示板やチャットには、様々な年齢の人が訪れます。もっとも、かつての「空き地」で見られたような「学年別」の上級生・下級生という区別はありません。インターネットでは、より多くの知識や常識・マナーを身につけた人が”上級生”です。”上級生”は、まだ知識が少なく、マナーの知らない”下級生”の面倒をみることが求められています。分別のある中学生が、常識知らずの大学生を指導することが実際に起こりうるわけで、ここがインターネットの面白いところです。このように、様々な立場の様々な人達とのコミュニケーションを通じて、長所を伸ばし、短所を改善し、お互いに切磋琢磨することを通じて、インターネットにおける常識・知識・マナーを体感的に身につけていくことが期待されています。その経験は、必ずや実社会にも通じる社会性の獲得にも良い影響を与えていくものと信じます。

そんなことを言っても、たかがアニメーション作品を通じたコミュニケーションに過ぎないかと思われるかもしれません。しょせん通信回線を媒介した間接的なコミュニケーションに過ぎないと思われるかもしれません。確かに、そのような側面があることは否めません。けれども、その本質は、アニメーション作品を見るだけのような片方向コミュニケーションではなく、テレビゲームのようなプログラム相手の擬似的双方向コミュニケーションでもなく、通信回線の向こうに確かに存在している相手との「人間と人間との双方向コミュニケーション」であることは紛れもない事実であり、そこには必ず一定の相互作用があって人間的に成長していく可能性が秘められているのです。

どうか、温かい目でインターネットを通じたコミュニケーションを見守ってあげて下さい。21世紀の時代において、インターネットにおけるネチケットを習得していくことは、今後ますます重要になってくるでしょう。ただ、あまりに長い時間利用すると、実生活とのバランスが崩れて、いわゆるネット依存症に陥ってしまうことがあるかもしれません。また、インターネットは善人ばかりとは限りませんから、ウイルスの添付されたメールが届けられるかもしれません。もっとも、それらは適切な対処を行えば心配するほどの影響を被らずに済みます。安全にインターネットを利用するための知識も、今後ますます求められるようになっていく知識であると思います。

インターネットを全面的に否定するのではなく、全面的に容認するのでもなく、そのメリットとデメリットを充分に見極めた上で、お子さまに適正な範囲でのインターネット利用を勧めて下さいますよう、お願い申し上げます。文責:毛利(大学院社会学専攻)
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/ghibli/welcome2.htm#book9