大江健三郎「話して考える」と「書いて考える」11

○言葉の迷路をさまよっているような読み方にも意味はある。

●ある。人生はそんなものだろう。立派なおじいさんでもいて、人生の見取り図が与えられていれば別だろうけれど。そうではなくて、自分で手探りしていくからには、人生はいつもさまよいである。

○いろいろな本を読んで、その後、いろいろな人生の経験も積んで、ある一冊の本が持ついろんな要素、多様な側面の、相互の関係、それらが互いに力を及ぼしあって造る世界の眺めがよく分かってから、あらためてもう一度その本を読む、つまりリリーディングすることは、初めてその本を読んだ時とは別の経験なのだ。

●そのような読みとりができる人間ならば、自分の人生を生きてみての感想もかなり立体的なものになるはずだと思う。

●そうなれば、人生を生きることと、解釈することとは、同じことではなくなるだろう。人生を解釈する作業は不可欠になる。

●そして、人生を解釈することは、精神療法をすることである。また、文学を読むことでもある。

●人生を生きることと解釈することは、一部重なりながら、別のものだ。精神療法は、そのように、一段階段を上った地点から眺めている。同じ段からいうならば、環境を変えることとか、実際的に銀行口座を作るとか、家族内で話し合いのルールを新設するとか、具体的な提案になって行くのだろう。精神療法はそうではないのだ。二階からの眺めを提供しつつ、最終的には一階の現実が変わってもいいし、変わらなくてもいいという立場である。