新時代の新対他配慮

新時代の新対他配慮というべきものがあるはずだと思うのである。

無関心は無関心なりに、
共感不全は共感不全なりに、
他者との関わりの様式を発達させるものだろうと思う。

根本は共感不全である。
その理由は、一つは文化の共通基盤の喪失である。

たとえば自分の属していると感じる文化サブグループがあるとして、
そこで通用している共感は、電車の中で会うおじいちゃんにはもう通じない。
結局、共感性がないと断定される。

共感性がないわけじゃないことは、
チャットの文章などで、部外者には分からない言葉が解説抜きで洪水のように並び、
そのことは場所が限定されているにせよ、強い共感性だと思う。

従って共感はあるのだけれど、サブカルチャーとしての細分化は進んでしまい、
ほとんど共感を不可能にしている。

お互いに孤立したたこつぼの中で共感しているしかないのであって、
それが誠実というものだ。

共感の適用範囲まで心得ているのだ。

他人様が何を心得ているのか、そのこととわたしの心得はシンクロしているのか。

どの程度シンクロしないものかを心得ているなら対他配慮があるのである。
そのことに無頓着で発信しているなら対他配慮が欠けていると言われてもしょうがない。

そのような状況の中で、うつは発生するのである。
たこつぼ以外のところでは発動されない対他配慮なのであるから、
関係ないのである。