語りえないものを語る

語りえないものを語る
それが詩の試みである

定型詩は
呪術のように
語りえぬことを語る

それが定型の血脈である

言葉の意味とリズムと音と形
そこまでは文章と同じである
その先、
定型のみが語りうる何かがある
万葉の昔から引き継がれている言葉に宿る
何かがある

それは諸言語でも同様で、
そのような呪術的血脈を持たない言語は、
人工の、たとえばコンピュータを動かす言語と同じような意味しかないだろう

言語は人間を教育する
言語は脳の鋳型となる
だから脳は言語の内部に収監される
しかし収監し切れない部分が残る
そこを言語は表現しようとするが
共有された言語習慣はそれを許さず
個人的な言葉になる

個人的な言葉?
何という矛盾だろう

完全に個人的なことに言葉は要らない
完全に個人的なことを言葉は表現できない

共有のものであるから共有の言葉で表現できる
言葉は成立した瞬間に共有物である
あるいは、生成の瞬間だけ、個人的である。

語りえぬものを語りたい衝動は常にある。
その運動も言語自体の能動的本質である。
一歩外側に行けば、それまでの体系にひびが入り、
修復に時間を要しつつ、それでも拡張を続けるが、
いつでも外側がある。

語りえぬ領域はいつでも罠のように待ち受ける。