欧米の旅 (上) 野上 弥生子著

価格: ¥ 840
ネットで見た書評を採録


 時代をこえる日記, 2002/10/15
 昭和13年、野上彌生子は欧米の旅に出発する。息の長い、密度があって精緻な文体が彼女の持ち味であるが、この文体があったからこそ、成しとげられた日記といっていい。どのページをひらいても、文章のきめのこまかさと観察力はおどろくほどだ。たとえば、イタリアで、ミケランジェロの有名な彫刻、聖母マリアが十字架から下ろされたばかりのキリストを腕に抱いた『哀傷(ピエタ)』を見たときの感想。
「ぐったりと、仰向けになった上半身を、背中から支えた聖母の手は、すでに硬ばって突きだされたクリストの右腕に半分隠れながら、ひろがり過ぎるほど開かれた五本の指で、ぎゅっと吸盤のように息子の腋の下を締めつけている。激動のあらわな表現は、すべてを通じてその右手だけである。」


 長い部分からの二行だけの引用だが、これだけでも、文体の密度と精度は、わかっていただけると思う。野上彌生子の場合、いかに物を見るか、ということは、いかに表現するか、ということとほとんど同じだ。この日記は、単なる日々の報告書ではない。社会そのもの、人間そのものを克明に書きとめようとする精神の軌跡といっていい。彼女の小説が忘れられても、この紀行文だけは残るのではないだろうか。「早い・軽い」に慣れたわれわれだが、ときには船旅の贅沢を味わうように、こういう本を読むという贅沢があってもいい。図書館で全集を借り出して読んで以来の再読になるが、何度読んでもおもしろい。星五つでは足りない。
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私には野上弥生子の文章をこのように賛美する感性はない。到底、ない。
しかし、野上を支持する一定の層が厳然としてあり、支持者内部での評価も定まっているようである。
わたしは代表作の小説を大きめのハードカバーで読んだけれど、昔のことで、私の感性が糠だとして、作品はそこに打ち込まれた釘のようだったことを覚えている。
野上氏を過剰に崇拝する層が存在することも、私には敬遠の一因となっていると感じる。漱石門下、岩波文化人、そのあたりなのだろうけれど。