リバタリアンな社会とは

参考に採録

2、リバタリアンな社会とは

現代国家の役割

 まずここで、私が日本の知識人の間の常識だと考える、日本という国家と私という個人の関係について、あるいは私の国家への義務について考えてみましょう。

 国家は私から税金をとります。これには直接的な所得税もありますし、日々の消費によって支払う消費税もあります。また、固定資産税などや住民税も忘れることはできません。それから国家ではありませんが、私は国家の定めるところによって共済保険や共済年金制度に強制的に加入させられています。

 これらの明らかな金銭的な負担に対して、私の権利はどのようなものでしょうか。

 私が犯罪の被害にあった場合には、警察が犯人を捕まえて、罰してくれます。またケガや病気の際には医療費の自己負担を3割にしてくれていますし、老後にはある程度の共済年金ももらえるということになっています。また医師法や弁護司法などの各種の法律によって、私が詐欺的な診療行為や取引話に引っかかったりしないように、後見的な保護もしてくれています。

 また、忘れてはいけないのは、外国に旅行したときなどに、災害やテロなどの緊急事態などでは日本国民としての現地国の政府から相応の待遇を受けるということです。そして、これらの関係は、私がごく普通の日本人として生きてゆく際にはほとんど自明なことだと思います。

 これらが、ちょっと考えてみて思いつく、私の国家への第一義的な義務と権利です。

 ここで注意してもらいたいのは、国家はひじょうに多くの権利や義務を、私をはじめとする国民の「明示的な同意」を得ないままに一方的に与えたり、課していたりするという点です。

 もちろん日本は民主主義にのっとった現代国家ですから、私は有権者として国会議員に投票し、その結果として成立してきたこれらの国民の権利義務に黙示的に同意を与えているいうように考えることもできるかもしれません。

 しかし現実的に考えれば、やはり私は共済制度が任意加入であれば加入しないでしょうし、その他の税金についても納得して支払っているとは到底いえません。また消費者保護のためという名目でおこなわれ、その実、各種の業界保護のためにしかなっていない規制などにもうんざりです。これらの意味において、国家は私に直接的・間接的な多くの「強制」をおこなっているといえるでしょう。

 リバタリアニズムはこのような肥大化した、後見主義的な国家の役割を否定します。人びとは自らの意思によって行動する自由と権利があり、それに伴う結果についても責任を負います。それが大多数の人間から見て愚かしい行為であったとしても、それを他人から強制されない自由な意思によって行うのであるかぎり、それを愚行権として認め、他人が物理的な強制力をもってやめさせるべきではないと考えるのです。

古典的リベラリズムの変質

 さてリバタリアニズムという言葉は比較的新しい政治用語だといえるでしょう。

 これに対してリベラリズムという言葉は皆さんもご存知だと思います。リベラリズムはいうまでもなく、人間の自由というものを重視した思想で、近代市民社会を形作ってきた自由主義思想だといえるでしょう。

 19世紀までのリベラリズムを古典的リベラリズムと呼ぶなら、古典的リベラリズムは政府からの自由を標榜していました。あるいは政府という強制権力になるべく拘束されないという意味での、純粋な消極的自由主義であったといえるでしょう。

 しかし20世紀にはいると第一次世界大戦が勃発し、ホーエンツォレルン家によるドイツ帝国は革命によって崩壊し、ヴァイマル共和国が成立します。この頃から、個人に対して国家が最低限の生活を保障するという社会権もまた、基本的人権のひとつとして加えられるようになってゆくのです。

 同じ頃、ロシアでも社会主義革命が勃発し、人間の個人的な自由よりも、むしろ社会的な平等を第一義的な政治目標とする政治体制が成立しました。レーニンによって指導されたロシアの社会主義制度はソヴィエト社会主義共和国と呼ばれ、第二次世界大戦後、その政治的な支配権を東欧におよぼしました。また、中国やヴェトナム、北朝鮮もまたそれぞれが独自の社会主義政治を追求していったのです。

レーニン

 この間、20世紀を通じて資本主義諸国においても急速な勢いで、社会権もまた基本的人権として保障されるべきことが認められてゆきます。フランス第4共和国憲法や日本国憲法、世界人権宣言にも当然のように社会権の保障が入り込んでいることは周知の事実でしょう。

 さて、基本的人権としての社会権はよく、国家による物質的な欠乏からの自由の保障、あるいは積極的自由の保障であるといわれます。実際、私が大学受験で学んだ教科書にはそのように書いてありましたし、今もほとんどの教養ある知識人はそのように理解していると思います。

 しかし、国家による「貧困からの自由」という概念は、そもそも本当に「自由」権なのでしょうか。もともと社会的に「自由」であるということは、他人の意思やこれまでの制度の拘束を受けないという意味を持っていたはずです。これに対して欠乏・貧困からの自由とは、国家権力からの自由どころか、積極的に国家の個人生活への介在を必要とします。

 そもそも個人に対して貧困からの自由を実現するためには、実際には国家が他の誰かからその物的な資源をとりあげて、貧困に苦しむ人に対して配分する必要があります。もっと現実的にいうならば、通常より年間収入の高い、あるいはより多くの物的資産をもつ個人に対して課税を行い、その財産を強制的に徴収して貧者に対する再配分をおこなうことが当然視されているのです。

 これは明らかに、自らの収入や資産を自由に処分するというフランス革命以来の古典的な財産権的自由権と対立します。ある個人の社会権を保障するためには、別の個人の財産権、あるいは私的所有権を制限する必要性が生じるからです。

 また同時期に、アメリカでの黒人公民権運動や同性愛擁護運動など、それまでの因習では社会的に否定され、差別されてきた人たちへの救済措置も国家がおこなうべきだとするような政治的主張がなされるようになりました。これが平等権という社会権として認められた結果、国家的が積極的に多様な行為を市民生活においても果たすべきだという現代的な風潮ができあがったのです。

 英語圏でいうリベラリズムには、こういった国家による多様な積極的な自由を現状以上に肯定するという響きがあります。リベラルという言葉には、すでに個人の内面的な精神活動を、他の人間へのさまざまな偏見なども含めて擁護するという自由主義的な色彩は薄れてしまいました。むしろそういった偏見、あるいは個人的な嗜好の選択を、国家が画一的に否定するようなものになってしまっているのです。

リバタリアニズムとは

 20世紀を通じてリベラリズムが古典的な自由の肯定的思想から、むしろ否定的な思想となってゆく間に、古典的な自由を復興しようとする考えが起こりました。それが社会権を否定し、自由権のみを肯定するリバタリアニズムなのです。

 リバタリアニズムという言葉は、19世紀までは「自由意志論」とでもいうべきもので、つまり自然哲学的な決定論に対するものとして存在していたものです。これは現在も哲学用語として使われることがありますが、めっきり少なくなり、政治的な色彩を帯びた言葉になったのです。

 多くのリバタリアンは警察・軍事・外交などの最低不可欠の機能のみを持つ国家を目指しています。そして、一部のより過激なリバタリアンは個人の権利を越えた権限を持つ国家を一切否定する無政府資本主義を信奉しています。

 このようなリバタリアニズムは、政治思想としてはハーヴァード大学の哲学教授であるロバート・ノージックが1974年に著した『アナーキー・国家・ユートピア』によって確立したといえると思います。この著作でノージックは、われわれは国家という強制権力装置によって、富者の財産権を侵害しながら貧困者を救済することは道徳的に許されないとしました。そして唯一肯定できるのは治安を維持するという最低限度の機能を持った、彼のいう「最小国家」であると結論付けたのです。

 この著作は大きな影響を今も持っていますが、実はこれに先んじて1971年には、哲学者ジョン・ロールズによる平等主義を唱道した名著『正義の理論』が出版されています。ロールズはそこで、配分的な正義の実現、すなわち平等主義原則の私的所有に対する規範的優越を掲げました。ノージックの著作は、ロールズの理論に対する、思想史的なアンチテーゼだったといえるでしょう。

 経済学者は政治哲学者より早くから、社会主義に対するより強い警戒心がもっていました。経済学者は自発的な交換、すなわち商取引を重視するため、強制権力を使って平等を実現しようとする社会主義には、必ずしも肯定的ではなかったからです。社会主義は高らかに社会権の保障をしますが、それはすなわち経済的な自由権の侵害を意味するのです。

 前述したように、第二次世界大戦中の1943年には、すでにフリードリヒ・フォン・ハイエクが『隷従への道』を著し、社会主義への警鐘を打ち鳴らしています。社会主義体制においては、個人よりも社会の利益を優先するために全体主義に陥り、そこでは支配者による思想や価値の押し付けが横行することになります。被支配者である市民は、権力者への隷属的な地位におとしめられてしまうと主張したのです。

 その後、70年代までは社会主義的な思想風潮、あるいは市場の万能性を否定して政府による経済介入の必要性を説くケインズ主義が、支配的な風潮として資本主義社会においても蔓延しました。このような状態にもかかわらず、アメリカでは自由な市場への政府の介入を否定するミルトン・フリードマンが、自由の価値と、自由市場が社会主義体制よりも人びとをより幸せにすることを『資本主義と自由』や『選択の自由』において訴え続けていたのです。

選択の自由

 個人の幸福度を基準として社会の優劣を比較する考えは、功利主義と呼ばれます。ミルトン・フリードマンの息子であるデイヴィッド・フリードマンは1973年に『自由のためのメカニズム』を著し、その後も一貫して、功利主義的な基準において、無政府資本主義のほうが政府の存在する社会よりも優れていることを訴えています。

 また経済学のオーストリア学派の流れをくむマレー・ロスバードは、権利論に基づく無政府主義の金字塔を打ち立てています。彼は1981年の『自由の倫理学』において、政府は物理的な強制を伴う存在である以上、倫理的な基準においても存在することは許されないという過激な主張を完成しました。

 彼によれば、人間の自由な活動によって獲得された私有財産は倫理的に絶対的に擁護されるべきものです。その権利を税金などの形であれ、わずかでも取り上げるような国家とはすなわち、倫理的にみて強盗団にほかならないと喝破したのです。

 以上、リバタリアニズムはさまざまな思想的淵源を持っており、論者によってその主張はそれぞれ異なります。おそらく共通しているのは、自由な社会は平等主義的な社会に比べて、より個人の物質的な生活が豊かであるという意味で望ましく、また人びとはより自分の個人的目的を達成することができるという意味で倫理的にも望ましい、という二つの信条だといえるでしょう。

ノラン・チャート

 アメリカではこのような考え方を実践するために、1971年からリバタリアン・パーティという政党が存在します。しかし、残念なことに、その政治力は微々たるものでしかありません。そもそも政府を縮小するために政府の政権をとるというのは、ちょっと考えても大きな概念矛盾があるからでしょう。

 自由を極大化するために現状よりも小さな政府を目指す政治家は、民主党よりも共和党に所属することが多いようです。たとえば1978年から8年間政権を担ったレーガン大統領なども共和党から立候補して、経済的には小さな政府を標榜して規制緩和を推し進めました。

 リバタリアン・パーティはたしかに政治的な影響力はほとんどありませんが、その創始者であるディヴィッド・ノランは、リバタリアニズムを理解する際にひじょうにわかりやすい図を考えました。広く知られている、この政治勢力の分類図はノラン・チャートと呼ばれています。

                      精神的自由 

         リベラリズム                  リバタリアニズム

                                         経済的自由

         全体主義                   愛国的保守主義

 チャートを見てください。縦軸には精神的自由度の高さが、横軸には経済的な活動の自由が表現されています。

 左上のクオドラントは、リベラリズムをあらわしています。リベラリズムは因習的思考に反対し、精神の自由を高く評価するという点で、いわゆる進歩的知識人の政治嗜好をあらわしています。岩波書店・朝日新聞に代表される言論界、あるいは主に大学人たちのような知識階層がここに当てはまることが多いでしょう。裁判所などを闊歩する裁判官や弁護士にも、こういう考えが支配的です。

 政党としては、旧社会党や現在の社会民主党、極端ではありますが、共産党などがここに位置します。現在の民主党では、菅直人や鳩山由紀夫などが、弱くはありますが、このクオドラントにはいるといえるのではないでしょうか。

 チャートの右下のクオドラントにあらわされているのは、経済的には自由主義を標榜しながら、同時に愛国精神による思想的な統制を望む人たちです。現代日本の政治状況においては、新自由主義と呼ばれるナショナリズムがこれにあたります。

 これに関連して興味深い事実は、ほとんどの国でのネット愛好者たちのサークルでは、愛国主義的で外国人に対する排外的な発言が目立つことです。日本でも、国際派である新聞社などの大手マスコミは中国や韓国の日本批判に対して融和的な態度をとっています。これに対して、一般庶民の発言が書き込まれている2ちゃんねるなどでは、「ネットうよ」、つまりネット上の右翼が主流となっているのです。そこでは対日批判を続ける中韓に対しても、侮蔑的・軽蔑的な発言が圧倒的多数です。

 おそらくこれは、外国の言語や文化にもよく通じており、世界的な視野をもつことが多い知識人に対して、一般庶民が日本という言語的にも空間的にも閉ざされた国にのみ生きているからでしょう。生活空間が狭い下流社会に住んでいる人ほど外国人などの他者への偏見や排外意識が強いことは、ドイツのドイツ民族主義集団ネオナチやアメリカの白人優越主義集団KKKなどでも同様であり、歴史的にも社会学的にも事実でしょう。

 さて左下のクオドラントは全体主義です。その極限は、北朝鮮のような国家です。それは思想的にも民族主義的社会主義を強制し、経済的にも計画経済と集産化を推し進めた社会であり、そこには物質的な豊かさも、精神の躍動的な自由もまったくありません。この点、中国やヴェトナムでは思想言論統制を続けながらも、経済活動については徐々に自由化しています。図でいうなら、左下から右下へと次第に移動しつつある社会だといえるでしょう。

 さて本題のリバタリアニズムは、右上に位置します。リバタリアニズムは精神的活動においても経済的な活動においても、最大限の自由を保障しようとします。左上のリベラリストからみると、「経済行為とは私利私欲に目がくらんだ金儲け」にすぎないため、あるいは物質的な不平等を拡大する社会的必要悪であるため、大幅に規制するべきだということになります。よって、リバタリアンは過度の私有財産制度の擁護を試みていると攻撃されることになります。また右下のナショナリストからも、親英米的な自由主義にかぶれた売国奴であるとして非難されることが普通です。

 つまりリバタリアニズムが一般的に不人気なのは、そのよって立つ基盤が伝統的に二分化されてきた政治陣営のどちらからみても、容易に譲歩しがたい相違点を持っているからなのです。

 実際、私を含めてリバタリアンの多くは国家というものはなるべく小さいのが望ましいと思っていますが、これはどちらかといえば資本主義体制や私有財産制度を肯定します。とすれば、この点からすれば、右翼的、あるいは保守的だとみなされることが普通です。これは、知識人階級のもつ平等主義に基づく経済的活動の抑圧は、職業生活こそが自己実現である多くの一般庶民の活動を無意味なまでに矮小化するものとして批判することでもあります。

 ところが同時に、リバタリアンはほとんどの場合、ナショナリズムもまた危険であるとみなします。ナショナリズムとは、まず民族ありきであり、どの民族に属するかが相手に対する行動の重要な基準になります。これに対して、リバタリアンは民族的な差別・区別は個人的な行動としては許されるが、国家のような強制権力内にはこれに反対する人が含まれる以上、国が伝統的民族主義などを教育することは少数者の自由の侵害であるとして、徹底的に糾弾します。しかし、このような考えはほとんどの保守的な民族主義者にとっては、ほとんど理解不可能でしょう。

 こういった理由から、リバタリアニズムは日本ではいうまでもなく、多くの国ぐにで大きな社会的な勢力となりえていないのです。

福祉国家から夜警国家・最小国家へ逆戻り?

 ノラン・チャートにあらわれているように、リバタリアニズムは思想・良心の自由は当然に重視しますが、それだけでなく、経済活動もまた可能な限り自由におこなわれるべきだと考えます。これはつまり、19世紀に思想的に全盛期であったと考えられる、自由放任主義、あるいはレッセ・フェールへの全面的な逆行であるとも考えられます。

 自由放任主義とはすなわち、人間の自由な経済活動は干渉されるべきではなく、個人の自由な活動の任せておけばおくほど社会全体はより豊かになり、望ましい社会になるのだという思想だといえます。

 このような思想をはじめて世に問うたのは、18世紀の思想家マンデヴィルでした。彼は1714年の主著『蜂の寓話』の副題を、「私的な悪は公的な益」と銘打っています。彼がそこに暗喩したのは、個々の蜂が一見して無秩序に自分の利己的な利益を求めてブンブンと動き回っているのに、その結果としては、全体としての蜂の巣、つまり社会全体はより望ましいものになるという逆説だったのです。

 明らかにマンデヴィルの考えに触発されて、1776年アダム・スミスは『諸国民の富』を著しました。そこでスミスは、われわれが肉屋にいって肉を買えると期待できるのは、肉屋の慈善的な心性によるのではなく、肉屋の金儲けの利己心によってなのだと指摘します。明らかに、私たちの現代資本主義社会とは、このような無数の利己的な心性によって維持・発展しているものだといえるでしょう。

アダム・スミス

 その後、19世紀の初頭に、デイヴィッド・リカードは『経済学原理』を著し、貿易をおこなう2国間の比較生産費のモデルを発表します。そこで彼は、政府に干渉されない自由貿易は、必ず貿易両国にとって物質的により豊かな状況をつくりだすことを証明しました。ここに経済学の古典派が完成し、経済はレッセ・フェールにあればあるほど豊かになるという考えが、19世紀の支配的な学問的認識となるのです。

 そしてリバタリアニズムは、このようなレッセ・フェール、あるいは夜警国家への回帰を訴えているのです。

 現在、ほぼ全世界の国家は社会国家、福祉国家としての役割を自認し、国家的に運営される救貧・防貧政策から、年金・医療保険などの社会保障制度にいたるまで、ひじょうに多岐にわたる任務を果たしています。

 しかし、その結果はどうでしょうか。生活保護を受ける家庭は急増しています。彼らの多くは低賃金で働くよりも、むしろ保護を受けて生きたほうが割がよいことを知って、働くことを放棄しているといっていいでしょう。国民年金制度にしても、度重なる年金保障額の引き下げで信頼を失い、すでに未払いが4割近くにもなっています。

 このような状況に対して、クニガキチントを信じる人たちは、さらなる強大な国家制度の枠組みを構築して、状況を打開するべきだと主張しています。けれども、私にはそのような政策が望ましいとも思われないし、うまく機能するとも思われないのです。

 警察は国家がおこなうべき最小限度の権力的、あるいは暴力的行為ですが、その警察が青少年の保護などの社会福祉係になるというのは、そもそも能率がよいはずがありません。警察機構の本来的な任務である、犯罪行為の防止という治安維持の観点から見てみましょう。

 防犯業務ではない業務の遂行にも、時間的・人的資源はかならず必要とされます。そうなれば、未解決の事件が残ったり、あるいは夜間パトロールの時間は減ってしまうでしょう。このようなトレード・オフが存在する以上、強制権力を持ち、税金で維持される警察には、犯罪行為に限っての抑止行動に注力するべきです。

 また国防や外交も重要です。一例として、ここで北朝鮮による横田めぐみさん拉致事件について考えてみましょう。誘拐という犯罪行為をおこなったのは北朝鮮という国家組織です。そして、そのような組織的な犯罪行為を実行した人物たちは全員が北朝鮮にいるのです。このような状況において、横田めぐみさんの両親のような個人にとって、何かできることがあるでしょうか。

 主権国家が並存している国際社会の現状では、自国民の保護とは、いうならば自分やその家族を強盗団から守るというような第一義的な要請だと思います。国内の景気浮揚というような、そもそも国家によってできるものなのかどうかもわからず、かつ人の生命に差し迫った緊急性もないことよりも、はるかに重要なことです。

 にもかかわらず、誘拐された自国民保護をおざなりにしたままに20年以上が過ぎ、小泉首相が日朝会談を最初におこなった2002年以降、現在に至るまで事態の全容も解明されないままです。福祉国家を掲げる日本の政治家は、この間、明らかに重要度の低い国内の社会問題などを論じ続けているのです。いかにも本末が転倒しているのではないでしょうか。あまりにも多くの目標を掲げる社会国家の持つ矛盾をさらけだしているといえるでしょう。

 クニガキチントの誤りに基づいてあらゆることを国家に要求するのはやめて、それらは後述するように、NPOその他の強制権力を伴わない自主・自発的な組織にゆだねるべきです。そして国家は警察、国防・外交に専念するべきなのです。それは時代に逆効するというものなどではなく、むしろ20世紀の社会主義的な試行錯誤を経て、人類が達した教訓だと考えられるでしょう。

ではなぜ夜警国家がなぜ必要なのか?

 ではさらにすすんで、夜警国家さえも必要はないと考えることはできないのでしょうか?

 アナーキストはほんのわずかです。無政府を信じる私のようなアナーキストを除いて、通常の経済学者であれば、最低限度、国家として警察、国防、外交の三つの任務に当たる「国家」あるいは「政府」が必要だと考えます。

 それはこれらの三つの任務には、純粋な意味での「公共性」があるからです。一般的な言葉としての「公共性」という概念はひどく濫用されており、およそ多数の利益にかかわることはすべて公共的であると考えるのが通常だと思います。

 しかし、経済学でいう「公共性」はこれとは異なります。それはもっと厳密なもので、公共財とは「その利益や損失の享受が非排他的なこと、つまり、一人が受ける利益が不可分に他人にも利益になるような財やサービス」のみに対して使われます。たとえば、警察活動の中でもパトロールなどの犯罪の一般予防に関する活動は、夜に街を出歩く私の受けるサービスと、同じように出歩いている他人とに対して、同じように利益をもたらすと考えられるのです。

 国防にいたっては、北朝鮮からのミサイルから私を守ってくれる迎撃体制が、私の近くに住むすべての人の利益になることは疑いないでしょう。同じように、外交活動によって横田めぐみさんを取り戻すのも、自国民保護という目的において、誰彼の区別なくそのサービスを潜在的に受けるものだと考えられます。

 以上が、厳密な経済学でいう「公共性」という概念の意味するものです。これら警察、国防、外交のサービスは私の受ける利益と他人の受ける利益とがあまりにも密接不可分であるため、それらをおこなうための政府を必要とするのです。

 とはいえ、もっとゆるやかな意味での公共性は、公害対策などの環境規制や河川の溢水を防ぐ防災活動などにも使われます。こういった活動は、利益を受ける人々や損害を被る人々があまりにも多く存在します。そういった活動について、その経済的な対価の一人一人の支払いを通常の交渉にゆだねるのでは、あまりにも合意に達するための費用(これを取引費用といいます)がかかりすぎてしまいます。結果として、公害紛争などの当事者間ではなんらの合意も得られないことになってしまうかもしれず、これでは経済全体としては大きな損失を被ることが考えられます。

 すでに1960年、シカゴ大学のロナルド・コースは「社会的費用の問題」という論文を書いて、このような公共性の問題はつまり、取引費用の問題に帰着させることができることを指摘しています。

公害などのように、あまりにも数多くの人たちが利益主体となるような法律関係は、公害を起こす企業や個人と、その公害の被害を受ける多数の個人との間で、容易に交渉がまとまるはずがありません。

 その結果、公害物質の排出は過剰になるかもしれません。あるいはその被害を全面的になくするために、有用な物質が作られないことになってしまうかもしれません。どちらにしても、経済全体としては大きな機会的な損失をこうむることになってしまいます。

 そこで、全知全能で慈悲深い「政府」があれば、二酸化炭素やさまざまな窒素化合物などの有用な経済活動の伴って生じる公害物質の最適な排出量を決め、誰がどの程度、被害の補償をおこなうかというような問題もすっきり解決するというわけです。

 しかし、現実の政府は、それ自体が自己肥大化という目的をもつ怪物です。さらに、私には現存する政府に勤める官僚に、民間人の遠く及ばないようなすばらしい判断ができるとは思えないし、そもそも正しい判断をするためのインセンティブにも欠けていると思います。結局、政治的な単なる妥協の産物が私たちに押し付けられることになるのです。

 政府がどの程度の役割を果たすべきかに関しての議論は、これだけに尽きるほど単純ではないでしょう。しかし、一つだけいえるのは、経済学者が考えるような、取引費用の大きさから必然的に生じる政府活動の必要性はごくごく小さいということです。そして、それに比べると、現代国家では、あまりにも有害で多様な活動を政府がおこなっているということなのです。

 私は最少数派のアナーキストですから、ゴルフにたとえるなら、ほとんどボールの大きさと同じほどに小さなホールを狙っているのだといえるでしょう。リバタリアンの大多数を占める最小国家を目指す人たちであれば、先に述べたような夜警国家を考えます。これはゴルフでいうなら、グリーンという比較的ひろい目標をねらっていることにたとえられるでしょう。

 どちらにしても、現状の福祉国家というティーショットから打つ方向は、まったく同じだといえると思います。政府は無意味に肥大化するべきではなく、強制権力を持っている以上、謙抑的な夜警国家にとどまるべきなのです。

世界的に再評価されつつあるリバタリアンな政策

 福祉国家の概念は第二次世界大戦後、広く先進国に普及しました。そこでは国家が国民に対して「ゆりかごから墓場まで」の世話をすることが理想とされたのです。このような理想を実現するために、たとえばイギリスでは、大きな主要産業の国有化や社会保障制度の拡充を図りました。

 その結果、国営企業の労働組合は市場競争がないなかで、賃金上昇や労働条件の改善を求めてストライキを繰り返しました。同時に、福祉政策によりかかった多くの人びとが働かないことを選ぶようになり、生産効率は停滞し、経済成長は著しく鈍化しました。

 このような状態を憂い、市場主義の導入による経済の再生を目指したのが、1979年からの保守党のサッチャー政権でした。サッチャーは電話、ガス、航空会社などを民営化して、労働組合の政治力を弱体化させました。また金融でもビッグバンとよばれるほどの大幅な規制緩和を断行し、ロンドンにあった金融街シティを再生させ、大英帝国時代の世界の金融センターとしての地位をふたたび確固なものとしたのです。

ロナルド・レーガンと中曽根康弘

 時を同じくして、アメリカでも共和党のロナルド・レーガンが大統領になり、国家による通信業界、航空業界の過剰な規制などを緩和して経済を活性化させようとしました。また、日本の中曽根康弘首相は国鉄や電電公社(現NTT)の民営化によって、硬直化しつつあった日本経済にカンフル剤をうったのです。

 ニュージーランドでは1984年、それまでの社会国家に比べてはるかにリバタリアンな政策が採用されました。これは時に、「経済原理主義」とまで呼ばれたほどでした。まず、国営企業は電話から金融、航空、鉄道の運輸にいたるまで民営化されて売却されました。そして、産業保護や規制はその多くが撤廃され、大学は独立法人化され、中央官庁の官僚も半減させたのです。

 この時代から、市場を重視する勢力は、国民の平等を国家によって実現しようとする福祉国家政策の増大に対して、大きな疑問を投げかけるようになったといえるでしょう。これはソヴィエトの崩壊と社会主義陣営の市場経済化によって、急速に拍車がかかったことはいうまでもありません。

 その後、日本ではバブル崩壊を経て、90年代は「失われた10年」と呼ばれた経済停滞の時期を迎えました。ついに2001年に小泉純一郎が首相になると、彼は「改革なければ成長なし」を掲げて、道路公団や郵便局の民営化に踏み切るのです。

 2006年現在の日本経済は回復基調にあります。とはいえ、私の意見では、小泉政権の後半2003年ごろから日本の経済が再び成長し始めたのは、経済改革が実行されたためではないと考えています。理由は単純です。経済が回復し始めた2003年の時点では、目に見えるような経済改革は未だに実施されていなかったからです。

 しかし、経済を活性化するために多様な国営組織を可能なかぎり民営化する、つまり「民間でできることは民間で」というスローガンは、リバタリアニズムの目指す小さな国家と軌を一にしているといえるでしょう。

 実際には、アメリカへの一極集中が叫ばれる中でも、必ずしもリバタリアンな政治が世界の圧倒的な潮流となっているとまではいえないと思います。

 この理由は後述するように、自由な経済活動が必然的に人びとの間の貧富の格差を広げてしまうという点にあると思います。これは、おそらくリバタリアンな政策のもっとも大きな弱点であるでしょう。たとえば、南アメリカではこれまで比較的親アメリカ的な自由主義を標榜する政府が多かったのですが、90年代以降の経済成長によって社会の貧富の格差が広がるにつれて、反米的な政府が次つぎと誕生しているのもまた事実だからです。

最小国家での医療制度

 それではここで、もっと具体的にリバタリアンな政治について考えてみましょう。まず最初に、もっとも端的でわかりやすく自由という概念が理解できることから、医療制度について考察をくわえることにします。

 現在の複雑にいりくんだ医療制度についての話をわかりやすくするために、まず第一の仮定として、現在の国家によって認定された大学による医師養成、ならびに独占的な医師の認定制度を前提にして、まずは医療保険制度についてのみ論じてみましょう。

 これを、医療制度に関する自由度レベル1の社会とでも名づけることにしましょう。

 自由度レベル1の社会では、国家が国民に加入を強制する医療保険などはありません。その結果はどうなるのでしょうか。国民はすべからく医療費の全額を支払うことを要求され、金持ちは命が助かるが、財産が少なくて治療費を支払えない人は、そのまま見捨てられて、のたれ死ぬしかないのでしょうか。

 常識で考えても、保険制度が発達した豊かな先進国が、こんな状態になるはずはありません。ほとんどの人は、病気などのリスクに対しては、危険回避的です。いいかえるなら、万が一にそなえて疾病・障害保険に入るためには、リスクを考えて、保険数理的にフェアな金額よりもすすんで多くを支払う用意があるということです。

 ここに保険会社の存在意義があります。レベル1の社会ではほとんどの人びとは保険会社と契約をすることによって疾病による財産的な危機を回避しようとするでしょう。そこでは、タバコを吸う人と吸わない人の保険料はリスクに応じて異なるでしょうし、そのほかにも多くの疾病リスクの細分化によって、異なった保険料が、異なった会社で設定され、それらから一般の契約者は自分が納得できるものを選ぶのです。

 なかには金銭的に余裕がない、あるいは危険回避的ではない、という理由から保険に加入しない人も出てくるでしょう。しかし、そういった人たちの存在が問題だと思う人は、彼らに補助金を与えて保険に入らせればいいでしょう。もちろん、自らの財産を使ってです。

 正直にいって、私には、本当にすべての人があまねく保険に加入する必要があるとは思えません。タバコをすって自分の寿命を縮めるのも、バイクに乗って身体障害者になるリスクを高めるのも、保険に入らずに人生をギャンブル的に生きるのも程度の差こそあれ、基本的には人間の生き方の自由に含まれると思うからです。

 人はそれぞれ自分が価値だと思うものに対して、自分の人生を使えばいいのです。単に長く生きることは、必ずしも幸せを意味するわけではありません。人はみな、単に生きるために生きるのではなく、それぞれが自分なりに掲げた目的の達成のために生きているのですから。

 長く生きるために自分の物的な資源を使うか、あるいはそれ以上に重要な個人的な価値のために散財するのかは、本人の財産権の処分であり、本人だけが決めることができる性質の事柄です。保険に入らずにのたれ死ぬのも、また人生の自由で多様な選択肢として認められるべきです。命より大事なものはないなどという、余計なお世話の心から、他人の感じる価値を無碍に否定するべきではないと思います。

 さて次に自由度レベル2の社会について考えてみましょう。

民間で認定される医師資格

 レベル2の社会では、医者とはすなわち、現在のパソコン管理者としてのオラクルマスターやマイクロソフト認定資格者などと同じように、いくつかの民間認定機関が認定した医療技能を持つ個人をさすことになります。

 もちろん、医療行為は高度に専門化されており、専門家ではない素人にはある医者の医療技術の信頼度ははっきりしないでしょう。

 だからこそ、認定機関が重要なのです。民間の認定機関は、その認定医師が医療過誤を起こせば評価が下がります。複数の認定機関と格付け機関が、現在の都市銀行と企業格付け機関のように相互に競い合えば、最先端医療の現場の医師への再教育にも熱心になります。また、若いときには医師としての診療技術のレベルを保っていたが、高齢化して技術を維持できなくなった医師には、市場から退出してもらうこともできるのです。

 もちろん、医師の資格も多様に存在してかまわないはずです。現在の医師資格は、いったん取得してしまえば死ぬまで有効であり、内科、外科、皮膚科、眼科、など分野の大きく異なる医療行為もすべてできるという、たいへんにいい加減な資格、いうなれば医師の既得権益的資格になってしまっているのです。

 民間認定機関では、真に能力がない場合には医療の特定専門分野のエキスパートとはみなされません。また、認定をおこなう機関どうしが競争することによって、現在の国家資格よりもはるかに安全で信頼できる医師が大量に誕生するでしょう。

 S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)とムーディーズは、企業や公共団体の債務の格付けについて、お互いが競い合っているからこそ信頼できるのです。かりにトリプルAをつけて絶対に安全だとした企業がつぶれれば、格付け機関は信用を失ってしまい、その後の存続自体が危ぶまれます。従業員のモラルにしても、自らの給料そのものが業務の公平性、信頼性にかかっていることが認識されているからこそ、万一の際の自浄作用も期待できるというものです。

 それに対して、クニガキチント医師を認定する現行制度には、基本的に競合関係に立つような組織がないため、そもそも緊張感がまったくありません。どのような医療技術が安全生が高いのか、あるいはどのような可能性を秘めた治療法があるのか、そしてどのような治療法を学ぶのが望ましい医師としての知識なのかを、真剣に吟味するための経済的なインセンティブが誰にも存在しないのです。

 また現行の医師制度では、一度医師になってしまえば資格は永続しますから、一人一人の医師が新しい医療技術について正しい知識を習得する必要はまったくありません。医師のモラルだけに期待するのは合理的ではないように思います。

 ここで、複数の医師資格が存在するなど考えられないと叫ぶ前に、ぜひとも思い起こしていただきたいことがあります。それは現在でも、世界の各国において認められている医師というのは、そもそも異なった国家によって異なった選抜をへて存在しているという事実なのです。

 みなさんは、海外旅行先で病気にかかったとして、現地の医者がそれほど信用できないでしょうか。私はアメリカに8年近くいましたが、その間、何度もアメリカの医者に通いました。そこではおおよそ日本と同じような医療設備があり、治療も同じようなものだったにちがいありません。それは医療的な知識や技術、あるいは設備には差こそあれ、途上国でも同じだと思います。

 しかし、日本の医者が要求されている知識とアメリカの医者のそれとは、たしかに違いがあるのです。同じように、フランスの医者とドイツの医者、中国の医者の知識や教育は異なっています。しかし、それなりのコンセンサスはあり、違いは少ないでしょう。私が主張する多様な医師制度も、結局は、その程度の違いしかないことになるだろうと思われるのです。

 また、現行の国家的な医師認定制度から、民間の認定制度に移行する際にはどうしても過渡的に複数の資格が並存することになるはずです。どうしても新しい民間の医師資格の認定制度が不安だという人は、過去に日本国の公的制度によって認められた医師、あるいはそれらの医師が主に勤務するような病院にいけばいいのではないでしょうか。

 最後に、医師の国家的に認定制度のダークサイドについてひとこといわせていただきたいことがあります。

 公共性を自認してやまない大新聞の第一面、そこに大見出しで書かれている記事の下に広がる広告欄をじっくりとご覧ください。「アガリクスでガンが治った!」「痛みをとる!リンパ反射療法」「メシマコブで無敵の免疫!」といった、明らかに薬事法違反、あるいはスレスレの限界表現を使った書籍の宣伝が目立ちます。こういった状況は民間療法、あるいはヒーリングビジネスでも同じです。カルト的新興宗教の多くが、信仰による病気の快癒をうたっていることもよく知られていることでしょう。

 私は、まったくこういった民間療法を信じていません。健康法はといえば、せいぜいマルチビタミンやミネラルコンプレックスなどの代表的なサプリメントを服用するぐらいです。しかし、私にしても思うのです。あるいは、これらの一見してバカげた民間療法の一つぐらいは本当に効果がある可能性も、まったく否定することはできないのではないかと。

 どのような医療を受けるのかを決めるのは、本来個人の自由なはずです。その際に参考にする意見には多種多様なものがあってもいいでしょう。丸山ワクチンが効くのか効かないのかについての議論は国際的な医学会で論議されて、それを参考に個人が決めればよいのです。

 あらゆる学問的知識には、論争があります。自分がガンなどの致命的な病気になってしまったときには、かかりつけの医師の判断に任せるのもいいし、それがいやならNPOに聞くもよし、自分でネットで調べるのもいいでしょう。しかし、なにも国家がわざわざガンと関係のない人から集めた税金を使ってまで認定する必要はないのではないでしょうか。