柄谷行人「世界共和国へ」

ここでは、政治権力の発生と資本主義の生成が理念的に構成されている。
実際の歴史は一度きりであり、生産様式の発展にしても、
そこにからんでくる意識のあり方にしても、
そして国家、あるいはその他の集団についても、
何が偶発的で何が必然的なのか、
明確に区別することはできないだろうと思う。
できるとすれば、
現代のような産業基盤、技術基盤、科学基盤がある、
そのような状態に人間集団を置いた場合に、
どのような社会を構成する可能性があるか、
最初のゼロから、心理学的に再構成することだろう。
歴史的に再構成するのではなく。

その場合に、人間の現実としては現在のあり方しかないのであって、現在の現実が唯一の答えなのである。
ここが難しいと思う。

むしろ、宗教についての発展段階が論じられていて、
現世利益や呪術から、キリスト教・イスラム教の一神論や神を置かない仏教的理念までをさらりと一望していて、
それがとてもクリアーで魅力的だった。
勿論、クリアーに割り切れるところだけを紹介し、
その範囲で理論通りでしょうという論なので、
当てはまっているに決まっており、
はずれている部分は本質的ではなく歴史的偶発的であるとして、
排除すればよいだけなので、
あまり説得的ではないとも言えるのだが。
むしろ、今後100年くらいの宗教の動向を、
予言し有効であれば、かなり説得力を持つのだが。

人文科学の場合、「実験で決める」ことが難しいので、
とにかく不自由である。

それでも、実験的思考はできるはずで、
人間の集団を想定し、脳の特性から、どのような状態になるのかを推定できないものか。

たとえば、食料の剰余がある段階で、どのような行動を取るものか、
思考実験してみることができないか。
行動科学や脳科学で用いているような、
コンピュータによる仮想空間で実験してみることができるようになるだろう。

いずれにしても、科学的空想的理想的な、社会制度と経済制度はまだ施行されたことがない。
施行されたのかもしれないが、そこに生きていた人間が、結局愚劣だった。制度を悪用した。そういうことなのだと思う。

究極の善意志を持った最高権力が地上を支配したとして、
はやり腐って行くのが、人間というものの実態であると、
思う。