文章と人格の乖離

これほどまでに教育が破綻した時代があっただろうか

きちんとした文章が書ける人は
きちんと考えられる人だと
昔から考えられていたはずだ

いまはそうではない
他人を動かす力のある言葉または
次回も読んでもらえる言葉を
書いている一方で
意味は貧しく
人格は貧しい場合が多い

なぜなのだろう

きれいな字を書く人は悪い人であるはずはなかった
感動させる文章を書く人は悪い人ではなかったはずだ

現在はネット上に活字を表示して何かを伝えることができる
それはたとえば、立派な俳優があなたの言葉を朗読してくれることに似ている
たとえば、立派な歌手があなたの歌を歌ってくれることも似ている

言葉の中身については
評価を控えている
無論そのことにも理由はある
誰も時代の価値観からは自由になれないのだから
知性は相対主義的にならざるを得ない

理性の審判はあるはずだろうとはいうものの
その理性はさんざん間違いを犯してきたのである
優秀な知性ほど、留保の必要を忘れない