ネット社会の知性

ネット社会の知性のあり方は
知識の総体に関連付けが薄いこと

そして論理の訓練が出来ていないこと

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本で何かを学ぶことは、
全体と個別の関係付けを作っていくことだった

図書館という知識の総体があって
その中で物理学があって
その中の流体力学があって
というように目次を再分化していく作業があり
何かを勉強していると言うことは
たまり自分の頭の中の図書館の引き出しにインデックスをつけて、
場所を決めて、他の司式との関係付けをするようなところがあった。

最近はいきなりネットで検索である
Wikiでほどほどに必要なことは分かるし
次に何を調べたらいいかも分かるので
いいのだけれど
嘘が混じっていても
それを見抜くことが難しくなっている

書物の世界では
子引き・孫引きがあり、
翻訳があり、
どの段階でミスがあったのかを
検証するのが大好きな人もいた。

ネットの世界では
引用の体系も少しばらばらで
よく分からなくなっている。

人類の知識の総体の中でどのあたりの事を考えているものなのか、
その感覚がつかみにくい。
それがネット社会だと思う。

部分の詳細については調べ易くて
昔発売されていた
ビデオのリモコンのテレビ部分の設定の仕方なんていうのも
簡単に出てきて
やはりネットは便利である。

しかしそれで終わりになってしまうことが多くて、
個別の事象と全体のことや人生の事を結び付けて考えることが少なくなったと思う。
個別を全体の中で意味づけることが
あるいは意味づけをしなおすことが
文学の一つの方法なのだと思うが、
それがしにくいと思う。

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知識にインデックスがついていないで、
いきなりアルファベット順の検索をかけるような
知識のありかたといえばいいのか。
図書館がアルファベット順または日付順に並んでいる。
それはそれで合理的である。
しかし伝統的知識人の頭の中は、
分類がしっかりしていて、
かつ、個別の項目同士に内在する連関を発見できるようになっていたものだと思う。

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分類には常に不完全さがあり
それはずっと不満だった。
概略としてはそれでいいが、
新しいものはどこに入れたらいいかしばらく迷う。
また領域を横断するような知識体系もあるもので、
それについては場所に迷う。
迷ったときのくずかご的分類もあるから取り敢えずはいいけれど、
時間がたつにつれて、不満が出てくるものだ。

しかしそれはそれでいいのであって、
小学生が学問と出会うとき、やはり図書館の分類項目に従って、学習を進める。
時代が違えば少し違うものになるがそれでいい。

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欠如しているのは全体の見取り図である。
しかし考えてみれば全体の見取り図を提供するものが支配者であった。
いつの時代でも。
歴史も科学的知識も支配者の手によって編纂されて提供された。
支配者が変われば更新された。

ネット社会の特質は、本来、支配者を排除することだった。
中央集権を排除して、ヒエラルキー的につながるのではなくて、
ネット的につながるのが、趣旨だった。

だから全体の見取り図が欠けているのはいいことかも知れず
拒否し続けていいのかもしれない。
しかしまた、全体の見取り図のない不便さもあるのだ。

支配者が誰でも科学的真実は変わらないだろうと言うピュアな考えには賛成で
そうであって欲しい。
支配者が変われば実験結果が変わるなんてことは
本来ありえない。
しかし人間は政治的である。

全体の見取り図が欲しいと言うことはつまり支配者が欲しいということにつながるのかも知れず
それくらいなら混沌のままでいいような気もする。
秩序とヒエラルキーが欲しいのはこれまでの習慣だったような気もしてくる。

このあたりはもっと繊細に考えてみなければならない。