ピカソ展-1

ピカソの手法にもいろいろあるが、そのひとつはコラージュ技法だと思う。

今風の説明をすれば、
デジカメでいろいろな角度の写真を取っておいて、
あとでそれらを使ってコラージュを作れば、
一枚きりの写真よりはいろいろなことを語ることができるはずだ。

このコラージュ技法を視覚領域で実行するとピカソのようになるのだと思うが、
現実認識とか物語としての認識ということで言えば、
さらにコラージュ的な認識をしている。
黒澤の映画、羅生門で、それぞれの人間が語る物語が少しずつずれていることが
描かれている。
ずれている物語の三つを総合しても真実が合成されるわけではない。
真実はどこにあるのか分からない。

家族インタビューでは似たようなことが起こる。
それぞれの立場でそれぞれの真実を語るのであるが、
少しずつずれている。

裁判ではないから真実を認定する必要はないのであるが、
それにしても、人間の認識は不安定なものだと感じている。

たとえばトイレの正面の壁にある模様が
人により時により人の顔に見えたり体に見えたり、笑っていたり、走っていたり、
さまざまである。

それらは模様の性質を語っているのではなく、
見る人間の脳の中身を語っている。