ゲーム依存症の浦島太郎

人間の脳には
たとえていえば隙間があって
その隙間の部分に日本語とかギリシャ語とか
日本の風土とか重力定数とかそんなものが
体験を通じて徐々に埋め込まれていく。

たとえば野球で外野フライをキャッチするとき、
目測が大変正確で驚くのだが、
細かく言うと
地球の空気抵抗とかそのときの風とか重力などを加味して
どんなコースをたどるか予測している。
もちろんそのように分析的に考えているわけではなくて
経験からこのコースだろうと……になって描かれるのではないかと
思う。

たとえば将来火星で野球をするとして
空気抵抗も違うし重力も違うのでボールのコースは違うのだが
少しの間練習すれば慣れるだろう。
そのように可変的な部分がある。
先天的ではないから学習が必要だけれど
決まっていないから環境変化に対応できる。

その部分にゲームやネットが入ったらどうなるかということだ。

昔の遊びは
昔になるほど
現実そのものをなぞって遊んだはずだ。
地上の空気抵抗と重力を体験したはずだ。
しかしゲームの中にある空気抵抗と重力は現実と微妙に異なるのではないか。
むしろ、ゲーム画面を面白くするために細工がされていることがあるだろう。
そうすると現実世界に戻って活動する時に不都合になる。

問題になっているのは
攻撃性とか対人配慮とか人間の限界とかそのあたりなのだ

過剰な攻撃性を育ててしまうのではないか
つまり攻撃性に関する定数Zが大きい数字にセットされてしまうのではないか

対人配慮はできなくて
だめになったらあっさりリセットすることしかできなくなっているのではないか

人間の限界について体験が少なく
我慢するとか待つとかができなくなっているのではないか

宗教性の根源には人間の限界と自然の大きさがあると思うが
そのような根本的な体験が抜け落ちるのではないか

幼児的な全能感の幻想を訂正するのは
現実の体験なのに
ゲームの中で全能感の延長を生きているのでは
浦島太郎ではないか

浦島太郎はゲーム依存症の比喩だったのだ