リンチ 映画「親切なクムジャさん」

DVD「親切なクムジャさん」2枚組のプレミアム・エディション。
解説など入っている。見てみると、映画学校のテキストのようだった。
みんなとんでもないマニアックな人たちだ。
ひとつの映像にこれだけのアイディアと労力が注ぎ込まれていると知り、やはり、大変なものだと思う。

映画そのものは、言いたいことが多すぎて、見る方は消化不良になった。これからまたよく考えてから見れば、もっとおもしろいだろうと思う。初見では、密度が高すぎ、説明が少しだけ足りないようだ。

リンチ、つまり私刑について考える。復讐をどう考えるか。
感情の面では確かにそうだと思う。自分の大切なものはあるとして、それを犠牲にしても、復讐したいと思う場面があると思う。

たとえば泉岳寺でお祭りが行われている、四十七士の話。これは自分の命を犠牲にし、さらに家族の将来まで巻き込む、とんでもないリンチ事件である。
公正な裁きというものを全く信じないのだ。
社会を運営していく立場からすれば、大いにまずいのであるが、気持ちとしては共感してしまうのが日本人の最近の習性だろう。
例えば、学校の中でリンチが派手に行われれば、学校当局としては喜んでもいられない。
正義には手続きが必要なのだ。

法律関係の人には、まあ、世の中はそんなものだとの意見もある。
だから、遠山の金さんになり、必殺仕置き人になる。
弁護士その他の人の中には、裁判という仕組みを全く信用していない人がいて、その人は、直接相手と交渉して物事を決めてしまうのだという。
裁判官に何が決められるものかと考え、直接交渉がいいとしている。
この例は極端にしても、個人として、社会または運命や神が公正さにおいて欠けると思うことはあるだろう。
その時、どうするか。
私刑を考えるにあたっては、自分はなぜ正しいのかを自問する必要がある。
そして、自分の正しさを自分で確認して確信することは原理的にできないようだ。
だとすれば、私刑というものは、一時の激情なのであり、長い目で見れば、後悔の種にならざるを得ない。

リンチを実行するとして、どのような形態であれば、効果を上げることができるのか、それも考えつかない。
最終的には命を奪うことが目的になると思うが、
そんなことをして、相手は恐い思いをするだろうが、リンチを実行する側としては、「思いが晴れた」と納得する瞬間はないだろうと思う。
わたしがこの映画から考えたことはそれだ。
どんな私刑を下したとしても、気持ちは晴れないだろう。

映画の最後で、贖罪とか、魂の浄化とかが話題になっているのだが、
魂が浄化されたとはとても思えない。

もうひとつの不満は、事件の前半である。否応なくそのような経過になってしまったということが、説得力を持って描かれていない。そして、復讐の計画が確定するまでのプロセスが大事だと思うが、描かれていない。
計画を確定するにあたり、自分の心理について点検するはずである。その際に、どのようにして、復讐における「採算点の高さ」を克服するかが、提案されていない。
誘拐殺人は引き合わない犯罪の代表であるが、
復讐もまた引き合わないものだ。

あれこれ考えたあげくの結論は、こうだ。
自分の人生を生きた方がいいだろう。
効果的な復讐は、ない。
あるとすれば、自分がどんどん勝手に幸せになってしまうことだろう。

「復讐するは我にあり」は何度も映画化されている。
復讐の情念は、他人には否定できない。わたしも一時的には賛成する。
しかし自分の問題として考えた時に、自分の人生をそのことのために犠牲にするには、人生は貴重すぎる。
私なら、その復讐の対象から、物理的にも心理的にも離れて、できれば、新しい人となって、大切な時間を生きたいと思う。

一時の激情はある、そのことは何重にも理解するとして、やはり、どうしても、最終的な人生の損得も大切だと思うのだ。

親切なクムジュさんは、前半の親切ぶりをもっともっと誇張して楽しませて欲しかったのだ。それがどのような隠された意図があったのかを楽しみつつ、そして、韓国女子刑務所ではどんなことが起こる可能性があると監督は考えているのか、楽しませて欲しかった。

テーマはとてもよいので、時間を長くして、精密にすると同時に、分かりやすく描いて、とも思う。