父の名と出生率

心理学領域で「父の名」などという言葉を聞くと思う
それは秩序であり、法であり、真義であり、制度である。擬制であるとしても制度である。

何のことかと言えば、
女性は子どもを産むときに、自分の子であることは間違いがない。
男性は本当のところは分からない。
だから法を信じるし、真義を信じるし、愛情という擬制を信じるしかない。秩序を信頼するしかない。それが父の名と言うことで、大変に頼りなく、困った話なのだ。

しかし女性はそんなものを大事に議論している男性を馬鹿にしつつ、
いくらでも婚外子を儲けることができる。
時には誰の子か分からなくなることもあるが、
自分の子どもということは確かなので、女性の側にとっては問題ない。

血液検査やDNA鑑定で問題になったら
居直ればいいだけの話で、
たとえば、無理矢理だったとか、暴力的で、脅されて、反抗できなかった、私は被害者だと言い張れば、すべては昔のことで、もうどうしようもない。

本当は他の男の子どもなのに亭主の稼いだ金で育てて、
抱っこもさせて、それでいいのかという気分にもなるかもしれないが、
それをDNA鑑定などで完全に排除すれば全出産の10パーセントは中絶になるらしいと言う。

現代では、出産の後に血液型などで父子でないことが父と子に分かってしまうことも多く、
昔ほど安全ではなくなっている。
だから最近の女性たちは産むよりは中絶を望む。

杓子定規に言えば、その際の提出書類には、法律上の夫のサインが必要なのだが、
医者は夫のサインと善意で見なして、事を進める。事実上は女性の意志だけでことが進行する。
あとで夫が、自分は関与していない、知らされていなかったと言っても、それは夫婦間の問題であって、医者の関与するところではない。

以上のような関係の事情がなければ、女性たちはたぶんあと一割、出生率を上げてくれるだろうと思う。
たまにほかの男の子どもを混ぜてもいいというのは神様の贈り物のようなものではないか。
それで出生率が一割上昇するならいいことではないか。

問題だとする人は、あとで真実が分かったとき、それからあと幸せに暮らしていけるのかという心配である。
幸せでなくても暮らしていけばいいにきまっているという健全な意見もある。
みんなが苦しむだけだから、産まない方がいいという、いかにも大人の意見もある。

きまった答えはないが、男が好きで、子どもが好きなら、産めばいい。何とかなるだろう。
男が嫌いで、子どもも嫌いなら、産まない方がいいかもしれない。それでも結局みんなを好きになるという場合もあるけれど。

男は嫌いだが、子どもは好きだという気持ち、ここに自己愛の成分を見る。
父の名の原理が優越するとき、
産んだのは自分母親でも、赤ん坊が所属するのは父の家である。
ここで赤ん坊は誰ものかという問題になり、母の血と、父の名が、衝突する。
衝突して、最近は必ず母の血が勝つ。

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人間は自分の評価をうすうす知っている。
知るための道具も環境も世界にはたくさんある。
にもかかわらず、自分のことについては、実像を100として120くらいに軽く水増しして考えているようだ。

すると相手についても、たぶん120くらいの水増しはありそうで、実際はそれよりかなり小さい、では信用できるものは何だろう、家柄、財産、これは何となく評価しやすい。才能になれば難しいけれど、世間的に認められている程度。期待されている程度で測定できる。

決して、私があの人をどれだけ愛しているかとか、あの人が私をどれだけ愛しているかとか、
泥沼のような、おとぎ話のような、愛の話はいわないようにしよう。
入り組んだ自己愛の展示場になってしまう。
そんなものよりも現実に確実な財産が問題なのである。
しかし大半は会社のものであったりして、会社での生存競争に負けたら元も子もないということもある。
頭のいい人当たりのいい次男坊がいたりしたら、
悲劇の前夜である。

いずれにしても人間は自分をサイズ120のカプセルに入れて、
それが世界が私を評価する大きさだと思いこんで人生を始める。

そのカブセルから出るまでがモラトリアムである。
カブセルから出ないなら自閉ということになる。