精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」 中安

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.1

精神病の代表的な疾患である精神分裂病は、
ときに哲学や心理学の自我の概念を用いて分析されてきた。
しかし、精神分裂病の成因論を自我論から解放し、
仮説としてのモデルに基づいて患者の心的体験を詳細に検証していけば、
神経心理学に接続できる新しい「心のモデル」を構築できるかもしれない。
ガン細胞さえ正常に戻してしまう「発生の場」
<土屋>
人生の悩みなんていうのは誰でも持つわけですよね。何日も仕事が手につかないとか、みんな一度は経験していると思います。そういう症状と、精神疾患――いわゆる精神病と呼ばれるような症状とはどのように区別なさっているんですか。

<中安>
精神疾患は成因的に大きく二つに分けられます。まず一つは、正常心理の延長線上・・・いわゆる正常者の心理の中にもあるものが日常生活に支障をきたすほど量的に肥大したケースです。例えば、神経症の一つに強迫神経症というものがあります。その中の代表的なものに確認強迫といいまして、ガスなどの火の始末を何十回も確認せずにはいられないために外出できなくなったり、不潔に対する恐怖から手の皮がむけるまで手を洗うといった症状が出ます。こういうことは正常者の心理の中にもありますね。つまり質的には正常者の心理と同じなのですが、ただ量が異常に多い場合です。

もう一つは、明らかに脳の障害であると理解し得るものです。まだ脳の異常だとは確認されていない疾患もありますが、薬理的な根拠などから脳の障害だろうと思われるものですね。この場合は、正常者の心理の中にまず現れないような、質的に全く異なる体験が現れます。例えば、精神分裂病などはまさにそうですが、幻聴、幻視、あるいは興奮・・・興奮といってもわれわれが喧嘩して興奮するような質のものではなくて、一目見ればわかるという激しい興奮状態が出てくるわけです。精神疾患というのは、わかりやすく言えば心の病と脳の病、大きくはこの二つに分かれるのです。

<土屋>
つまり前者の方は、原因は脳ではないとみなされているのですか。

<中安>
その辺が難しい。精神医学の進歩で、かつては量的な異常であると考えられていた疾患から、質的な異常、脳の異常が見つかってきているのです。例えば、強迫神経症も、私が20数年前に医者になった時には、心理的ストレスによって起こるために、治療はカウンセリングしかないといわれていました。でも、カウンセリングでは全然治せなかったわけです。ところが、ここ4、5年ですかね。特効薬が見つかってきて、その薬を使えばたちどころに治るというような状態になってきています。薬が効く、つまり化学物質が効くということは、脳内の化学的な異常があるんだろうということになります。そして今や強迫神経症の原因は、脳の障害として考えられるようになりつつあります。

ただ、まだ非常に多くの疾患が正常心理の延長線上――つまり量的な異常と理解されています。病的な体験の裏に脳の異常があるのかどうか、実際のところまだはっきりわからない。むしろ否定的ですね。そういう場合は、心の病といった方がいいだろうと思います。

<土屋>
現在では心の原因は脳であるとされていますね。脳の構造に対応して機能のモジュールがあり、それらがお互いに情報交換し合って認知的なプロセスが動いているという一つの圧倒的なパラダイムがあります。ですから、心に何か変なことが起きているとすれば脳が変な状態にあると考えるのは極めて自然だと思うんですが、にもかかわらず、やはり心の病があるとお考えになる理由は何なのでしょうか。今、先生がおっしゃったような、成因論的に脳に戻っていかない、脳の異常を原因としない精神疾患――真の意味での心の病といえるものがあるのでしょうか。

<中安>
心の機能・働きをすべて脳に還元して考えるならば、量的な変異といえども脳に何らかの変調があるだろうと考えられますね。そうすると、すべて脳障害という考えが出てくるのも不思議ではありません。

ですが、臨床的に見てみますと、この人の、この人生において、こういう出来事があったが故に、この人は今の状態になっている、と考えると納得できる場合があるわけですよ。例えば、境界性人格障害という、性格が極度に不安定で激しくなるために、通常の社会生活を送ることが困難になってしまう精神疾患があります。この場合、生い立ちからして、あるいは生活史上の出来事からして、故に患者さんはこうなったんだというのを心理的に了解できるんです。もちろん、そういうイベントが脳に変調を与えたんだといって脳障害に還元することはできますけれども・・・。

<土屋>
脳に異常が起こったと言及することなしに、十分にシステムとして了解できる、そういう現象があるということですね。

<中安>
そう。逆にいうと、脳の障害に還元できる疾患の患者さんたちには、そういう原因は見当たらないんです。精神分裂病、躁鬱病の人たちはみんな、症状がパターン化しているんですよ。分裂病や躁鬱病の患者さんを、半年、一年診ていると、パターンでわかってくるんです。ところが、正常者をパターン化するのはとにかく難しい(笑)。何よりも薬が効くことが、分裂病が脳の病であることを保証していると思いますね。ただし、分裂病の成因に関しては、学者の意見も分かれています。私は分裂病脳病論の方ですけど。

<土屋>
薬が効いたというのは、基本的には症状がなくなるということですか。

<中安>
そうですね。

<土屋>
脳の状態が改善されたことを客観的に確かめる手段はありますか。

<中安>
今のところないですね。心的体験とはどういうものか、心のあり方とはどういうものかと考える場合でも、精神科医は患者さんの体験陳述から始めるしかないんです。

症状の詳細な記述から心のモデルへ
<土屋>
確かに身体の場合だって、症状を訴えることから始まりますね。

<中安>
むしろ身体の場合は最近は症状が軽視されていますよ。計測機器を使えば異常がすぐにわかるというふうになっていますからね。ところが精神疾患、ことに精神分裂病の場合は、わかっているのが症状と経過しかないんです。だから診断するのも症状と経過を拠り所にします。ただ従来の精神病理学で問題だなと思うのは、心的現象の記述・記載が極めて不十分だったということなんですよ。

<土屋>
症例報告に出てくる記載がですか。

<中安>
そうです。少なくとも分裂病における病的体験の記述は不十分です。例えば精神病理学では、現象記述とは体験のありのままの記載だという考え方がありますが、体験をありのままに記載するなどということはできないはずです。せいぜい医者として記載しているのは患者さんの言語陳述に過ぎない。患者さん自身が自分の体験を話す過程で何らかの修飾が加わってくる可能性が十分にあるわけですからね。

<土屋>
非常に共感します。精神科のお医者さんの書かれた現象学的記述を拝見すると、素直に、極めてナイーブに症状の記述を……ある意味で、それを常識的な意味で理解して、それをもとにして心のモデルを作られてきているなという感じがしていました。だから今おっしゃったことはよくわかります。それに、今の認知科学や哲学、あるいは生理学、物理学でアプローチする人たちも、心理学的な事実の表現について全然分析を加えていない。つまり心的現象の記述が全然できていないわけです。そうすると、こういう心的現象は脳の中にこういう対応物があるんだという話をしようにも不可能です。

<中安>
もう一つ言うならば、ありのままの記載では学問にならないと思うのです。やはりわれわれは、ある種の概念で現象を切り、分析していくわけですから・・・。患者さんの陳述を概念化してこそ初めて「学」といえるものになるのであって、ありのままの記載なんてできないと思います。

<土屋>
こう言い換えてもいいんじゃないでしょうか。患者さんの体験陳述が出てくる。それをただ常識的な意味で受け取って、それに対応する物理的、生理的な原因を探すだけではだめで、理解するためのモデル化が必要だということですね。

<中安>
そうです。例えば幻覚というものがありますね。分裂病の場合の幻覚は、あるものが実際に聞こえたり見えたりするわけです。それを幻覚、すなわち幻の知覚という形でまとめてしまう。ところで、これを知覚の障害だと理解する向きが圧倒的に多いんですよ。そして錯覚と幻覚を同じように捉えています。

<土屋>
そうなんですか。それは違うでしょうね。

認知科学が実験室から出られれば
<中安>
錯覚というのは知覚素材あるいは対象があって、それが変容して認識される現象です。一方幻覚は、そもそも知覚対象がないわけですから、それを知覚の異常、知覚の障害と捉えることはできないはずです。それを単に形式の類似性に基づいて、幻覚は知覚の障害、妄想は思考の障害であるとこれまでは理解されてきているわけです。私は精神症候学というか分裂病の症候学から、最終的には分裂病の脳、神経心理学的なものに橋渡ししたいと思っているんですけど、これでは全く橋渡しできません。 ただ、先ほども申し上げましたように、分裂病はまだ症状と経過でしか規定されておらず、患者さんの心的体験は言語陳述的にしか表出されないのは事実ですから、われわれは少なくとも最終段階の体験陳述を対象とするところから出発せざるを得ません。そして、最終的な体験陳述が出てくるまでのいろいろなプロセスを個別に見て、それをもとにモデルを作って初めて、分裂病を科学の対象にすることができます。その際に、私も認知科学には非常に興味があるんですが・・・。

<土屋>
底が浅い(笑)。

<中安>
底が浅いというよりも・・・ちょっと使えない。認知科学は実験室内――つまり限定された条件下で調べるわけですね。でも患者さんは条件が限定されない日常生活の中で、ありとあらゆる刺激物と出会っているわけです。その点を考慮して、私は非常に卑近な正常者の日常体験から出発せざるを得ないと思ったわけですよ。

<土屋>
それは多分、私の考えていることと近いかなと思います。実験室の心理学では、知覚体験を考える場合にしても、伝統的には顔を固定したまま目の前に物を見せて調べるわけです。でも、そんなふうにして物を見る人はいません。しかし、そうしないと条件がコントロールできないと実験心理学者は言うんですが、実際の人間が体験しないような条件でコントロールすることにどれくらい意味があるか疑問です。今認知科学でも、実験室的でない現象をどのようにして理論化するかというところに関心が移ってきていると思います。リアルワールドで、人間というかエージェントが、相互作用をしながら何か一定の目的を追求している場面をなんとかモデル化したいという状況になっています。

そんな中で出てくるのは、1人の人間が心を持っているとした場合、その中で記述が閉じてくれるかどうかという疑問だと思うんですね。例えば知覚体験にしても、心という能動的な主体があって外界という客体があるという静的なイメージでは理解できないはずです。もう少し進めて考えると、ギブスンという心理学者が昔アメリカにいて、生態学的な知覚論と称するものを展開しているんですが、知覚というのは人間と環境の相互作用であるというような言い方もされるようになります。そういう面からも、実験室的なモデルは、すこし調子が悪くなってきていることは事実なわけですよ。

<中安>
そうですか。私も実験室内で形成された認知のモデルを持ってくるだけじゃだめだろうと思っています。正常者の日常的な体験からある認知モデルを作る。そのモデルの中で、この分裂病者の体験はどうなのかということを解析する必要があると考えています。それまでバラバラな精神機能の障害として見られていた症状が統合的なものとして理解され、なおかつ症状が併存するとか、あるいは症状が変わっていくといったことが、実際の患者さんの言語陳述を通して臨床の現場で確認されれば、そのモデルが正しいことが証明されるでしょう。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.2
曖昧にしか規定されていなかった「心的体験」を捉え直す
<中安>
そこで私はまず、そもそも患者さんの心的体験とは何なのかについて、見直してみようと考えました。従来の精神医学では心的体験の捉え方が極めて曖昧で、有名な精神病理学者のカール・ヤスパースですら、「体験とは比喩的に意識の流れと名づけられ」としか述べていません。私は、心的体験とは、主体と客体とが営為によって結びつけられ、その全体を主体が対象化したものだと思います。

<土屋>
先生のモデルは、主・客を分けて対立させているように思えて、そこに私は少しひっかかるのですが・・・。心を持った主体の側――つまり、心の営みを重視しすぎている感じがします。

<中安>
表現の仕方が悪かったかもしれません。この場合「視る」「聴く」といった能動的なことだけを心的営為と考えているわけではなくて、「視る」じゃなくて「見える」、「聴く」じゃなくて「聞こえる」というふうに、主体が能動的じゃなくて、むしろ客体の方が迫ってくるような――主体が受け身的な部分もモデルの中には入ってます。必ずしも能動、受動というイメージじゃないんです。

<土屋>
日本語の場合には、「聞こえる」とか「見える」とか「浮かぶ」とか、自生的な言葉で表現されることが多いですね。

<中安>
分裂病の初期症状の中でも一番特徴的なのは、自生体験――自ずから生ずる体験なんです。過去の記憶がワッと浮かんでくるとか、まさに主体が客体にさらされる状況ですね。非常に面白いところです。

私が主・客をことさら強調したのは、旧来の精神医学に対する不満からなんです。従来の精神科の教科書では、自我意識と対象意識をはっきり分けていました。全く別の扱いなんですよ。でも考えてみてください。例えば、私がコップを見ているとしますと、私という主体とコップという客体が、それを見るという営為で結びつけられますね。これが一つの心的営為です。そして、それを対象化しているのがまた同じ私という主体であり、そうして形成された心的体験を私が陳述したものが体験陳述です。つまり、対象意識の背後には自我意識があって、両者は実は一対のものなんですね。そのことを主張したいがために、主体、客体、営為というモデルを出したのです。

<土屋>
なるほど。わかりました。何か行為がある以上は、対象意識と自我意識とが両方あるはずだということですね。

<中安>
そうです。もともと二つは一対のもので、主体と客体、それをつなぐ営為の三者で構成される心的営為全体を対象化するベクトルを少し主体に傾けたのが自我意識、少し客体の方に傾けたのが対象意識ということでして、どちらに焦点化したかというだけの違いなんです。

<土屋>
それならわかります。そうすると、従来自我意識とされていたものが、むしろ行為に対する意識という位置づけになってくるわけでしょうか。

<中安>
行為における主体のありようが自我意識でしょう。

近代の自我論では精神疾患を説明できない
<中安>
そうなんですか。離人症の患者さんは、今ここに自分が存在しているという感覚が希薄になるんです。これは従来の精神病理学では自我の障害だといわれていました。もう一つ、体感異常という症状があります。こうした患者さんの場合、胸に10センチくらいの空洞があるとか、目の奥に3センチくらいのしこりがあると実体的に感じます。そして、離人症は自我の障害だとする一方で、片方は体感の異常だと区別する。ところがこの二つは併存することが多くて、離人症にかかった人が同時に体感異常を訴えてくるんですよ。さらにいうと、そういう患者さんは実体的意識性――いわゆる気配ですね――をありありと感じるという症状も併存することが多いんです。これは従来意識性の障害と理解されてきました。つまり、それぞれの症状が併存しているのに、全然統合できないんですね。私は、離人症をはじめとするこれらの症状を対象化の障害と考えています。つまり、正常の対象化では知覚の素材、いうならば形象に、対象化に伴って生じるある性質、いわば実感が付与されると考えるんです。そしてこの対象化に障害が起きると、一方では「対象化性質の脱落態」、いわば「実感なき形象」になってしまうわけで、これが離人症なんですね。他方はその逆で、「対象化性質の幻性態」、「形象なき実感」となって、これが体感異常や実体的意識性というわけです。このように対象化の障害という観点を導入することによって、それまで全く別の障害と考えられていた症状の臨床的合併が統合的に説明できるようになるわけです。

分裂病もそうです。従来、自我障害こそ分裂病の最も典型的な症状だという議論があるのですが、私はそうじゃないと考えています。例えば、自我障害の典型的な例として「させられ体験」というのがあります。どういう症状かというと、自分が今、水を飲むとしても、これは自分がやっているんじゃない、何者かにさせられてる、と患者さんは言うんですよ。それを「させられ体験」といって、原因は自我の障害だとみなされてきました。ですが、これは「させられる」と患者さん自身が語ってますよね。語っているという能動的な自我が存在している、もしくは語る以前に「させられている」と感じている自我がいるわけです。それは極めて能動的な自我です。したがって、「させられ体験」というのは自我が障害されているかのような形を取った、何か別の障害だと思うんです。

<土屋>
「我思う、故に我あり」ですね。つまり、「我させられるが故に我あり」というか「我感じるが故に我あり」というような。

<中安>
「我させられると感じるが故に我あり」ですね。私自身は、近代の自我論は、精神医学、中でも分裂病の理解にはほとんど無関係だと思っているんです、実は。私自身は精神病理学を近代の自我論から解放したいのです。

分裂病は状況意味を失認する病
<土屋>
自我論からの解放というのはわかるような気がします。それでは、先生は分裂病というのをどのように捉えていらっしゃいますか。

<中安>
私は分裂病は直接的には状況意味失認が基本障害だと思ってます。状況意味というのは、ある個別のものがこの状況において、どんな意味を持つのかという話ですね。例えば、財布が私の机の上に置いてあれば、これは私がただ置いているんだとなりますね。しかし、道路に落ちている場合だと、財布は財布なんだけど、これは誰かがうっかりして落としたんだろうというふうに意味づけられる――つまり他の対象物との相互関係の下にその個物の状況における意味は転変していくわけです。で、分裂病における状況意味失認とは、状況意味を認知する中枢機構があって、そこに障害が生じているんだと考えるわけです。

一番わかりやすい例が、分裂病の代表的な症状である妄想知覚ないし被害妄想ですね。例えば前の方から2人の人が歩いてきて、通り過ぎる時に、2人がフフッと笑ったとします。通常であれば、たまたま自分とすれ違う時に2人で面白い話でもしたんだろうと、すれ違った時にたまたま笑ったのだと考えますよね。ところが、分裂病の患者さんであれば、自分を当てつけて笑った、あざ笑ったと思ってしまうんです。つまり患者さんは、「通り過ぎた人が笑った」という事実――私はこれを即物意味と呼んでいますが――は正常に知覚しているのですが、状況意味を誤認しているがために「自分をあざ笑った」と考えてしまう、ということです。シュナイダーという有名な精神病理学者がいたんですが、「妄想知覚とは、知覚は正常だがその意味づけが誤っている」と言っています。まさにその通り。妄想知覚というのは、即物意味は正しく認知されているけれども、状況意味が誤認されているということなんです。そういうことから、意識上・自覚的認知のレベルで状況意味誤認が生じる元は何かというと、意識下・無自覚的認知のレベルでの状況意味失認だと理解していいだろうと思います。

<土屋>
即物意味とは、考えてみると意味すらない状態とも言えますよね。

<中安>
状況意味を正しく認知できない状態になると、動物というのは生きていけないのです。

<土屋>
「意味の世界」に住んでいるのは人間だけではないということですね。

<中安>
ですね。

シリーズ対談 心の科学 [第二回]
精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」
不安から妄想へ、精神分裂病の再適応過程 Chap.3
不安から逃れるために架空の恐怖を作りだす
<中安>
妄想知覚、被害妄想は、状況意味失認の次に生まれるんですよ。他人がフフッと笑った、なぜだろうと困惑する、不安になる。そこであれは当てつけなんだと意味づけて理解してしまう。そういう被害妄想が生じるというのは、非常に自己防衛的な反応なんです。人間にとっては、失認で生じる不安よりも、妄想の恐怖の方が楽なんです。特定の対象に対する恐怖の方が、わけのわからない不安よりもよっぽどいいんですよ。なぜそうなるのか、なぜ統合しようとするのか。それは、状況意味を認知しよう、意識下で状況を認知しようというのが、自己保存にとって必須の機能だからだということになります。さらに情報入力が意識上に上がってきても、脈絡がないから統合できないんですが、そうなると、自己保存の危機という意識が一層醸成されるので、何とか統合しようとするわけですね。

重要なことがもう一つ、状況意味というのは蓋然性の世界なんですね。つまり可能性です。だから、「こんなの絶対に間違っている」と言って患者さんにブレーキをかけられないんです。実際、妄想患者と議論しても、延々と平行線をたどるばかりで議論になりません。「でもこういう可能性があるじゃないか」と患者さんから反論されれば、可能性ですから、確かにそうかもしれないとなる。結局患者さんは、偽りの統合――偽統合しちゃうんですね。今述べた妄想あるいは幻聴というのは、患者さんにとっては非常な恐怖、苦痛を与えるものですが、ある意味でそれらの症状は防御反応、再適応過程なのです。

<土屋>
状況意味失認というのは、よくわかります。要するに人間でも相当下等な動物でも意味の世界に住んでいる。それは非常に重要ですね。そこで、意味っていうのは何だろうと考えた時、先ほど先生がおっしゃったように、ある種の安定した相関関係がある出来事に結びついている時に、意味というものが出てくるだろう。で、それが崩れるか、蓋然性の低いものが出現した時に、確かに驚いたり、警戒したりすることは事実だろうと考えられます。そうすると、どんな動物だって意味的な理解がなければ、生活をオーガナイズすることはできないだろうと思うのです。

そして、話を人間の方に持ってきた場合に、そういう意味の世界は極めて複雑になっていて、あるいは予測不可能な部分もいろいろあって、大体いつもこういう関係にあるんだよということでないようなこともよくあります。どう理解していいのかわからないというケースもたくさん出てきます。同時に何かが起きたりすると意味が捉えられなくなって、その瞬間パニックになってしまうこともありますよね。

<中安>
まさに先生がおっしゃったように、分裂病の中には意味がとれなくなってパニック状態になったものがあるんですよ。それが緊張病状態です。緊張病状態になると、興奮あるいは昏迷という状態になる。興奮というのはランダムな動きです。ダーッと走り出して、壁にぶつかったり、ころげまわったりします。一方、昏迷は一切の自発性の停止なんですよ。目をあけたままボーッとしている。相当な刺激を与えても、無反応です。実はこうした興奮や昏迷と似た反応が動物にもあって原始反応といいますけど、パニックになった時に運動乱発といってランダムに動いたり、擬死反射といって無反応になったりします。

そして、パニックにならない場合に妄想形成するんです。妄想によって意味を見いだしてパニックを回避するわけです。これが再適応なんです。分裂病で見られる妄想形成は、生物の自己保存本能から必然的に生じる再適応過程なんですね。

<土屋>
先生がおっしゃるとおり、状況意味失認という概念は非常に大事ですね。自我というような曖昧な概念ではなく、ある意味ですべての生物に適用可能なレベルの概念で説明できるということを示すところが、実は非常に重要じゃないでしょうか。

分裂病は人間固有の特別な病気ではない
<中安>
私は分裂病というのは、そもそも人間固有の病ではなくてホモ・サピエンスという動物の病だと思うんです。こんなことを言うのは、精神科医の中でもやや異端かもしれません。ある学者はサルや金魚にも分裂病があると言います。極端な意見ですが、私は正解だと思っています。分裂病は動物としての病だと考えているんです。一般的に分裂病は120人に1人かかるといわれていますが、私はもっと多い・・・そう、80人に1人くらいはかかると思います。ですから、分裂病は特別な病ではないし、ましてや差別の対象になるような病でもない。動物としての人間がかかる、よくある病気の一つなのです。そういった意味では、精神科という呼称はやめてしまって、脳内科という言葉をつけたいくらいです。脳外科に対応した言い方ですが、精神科という言葉はよくないですね。いかにも人間としての特別な病という印象を受けますから・・・。

<土屋>
脳内科というのはいい言葉ですね。

<中安>
分裂病を動物の病であると考えると、他の病気と同様に治療できる可能性があることを意味します。ガンと同じで、早期に診断を下し、適切に投薬できれば、将来治癒できる確率が高まると思うのです。そこで重要になってくるのが分裂病であるかどうかを早期に判断することで、そのために私は、分裂病の初期症状の詳細なデータを積み重ねる研究をこれまで進めてきたわけです。

<土屋>
今のお話でどんな生き物でも分裂病になりうるのだとすると、認知科学が考えていることとつながるような気がします。人間の知覚にせよ、行為にせよ、人々とコミュニケーションをとるという場面にせよ、確たる近代的自我が利益を最大化するような話では決してないでしょう。むしろ動物と同じように、意味的に完成される余地の残っているさまざまな対象を、ある状況の中で解釈可能な意味づけを与えることによって、理解しようと試みているのだと考えられます。もしそれが上手くいかない時には、確かに病的なことが起こるかもしれない。ただ、その時だけ上手くいかないという場合もあるし、今後もずっと上手くいかないという場合もある。後者の場合には、それが精神病だという形で分類されることがあるかもしれないというあたりのところまでは、かなりの人が同じ方向で考えているんじゃないかなという感じがします。

これまで私は、精神病理学というのは難しいというか、論文を読んでも漢字が多くて近づきにくい世界だと思ってましたが(笑)、先生のお話を伺ってきて、精神病理学の言葉を認知科学の言葉に対応させると、もしかしたらお互いに新しい視点を獲得できるのかなという感じがしました。認知科学をやっている人にも精神疾患について理解しよう、治療とはいわないまでも何かプラスになるような形のことができないかと考えている人たちがいます。しかし、その人たちもある意味で非常に古いタイプの精神病観を持っているのかなと思っていましたので、むしろ先生のような発想を翻訳して伝えてみるのも面白いという気がしました。

<中安>
それはありがたいことですね。

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」/END

精神病理から見えてくる新しい「心のモデル」■参考文献一般向け
中安信夫・編:対談 初期分裂病を語る、星和書店、1999
クラウス・コンラート:分裂病の始まり、岩崎学術出版社、1994
カール・ヤスパース:精神病理学研究1、みすず書房、1969
カール・ヤスパース:精神病理学研究2、みすず書房、1971
土屋俊:心の科学は可能か 認知科学選書、東京大学出版会、1986
ダニエル・C.・デネット著(土屋俊・訳):心はどこにあるのか サイエンス・マスターズ〈7〉、草思社、1997
土屋俊、広松渉:徹底討議・知性をもつハードウェア―認識から行為へ(対談)(特集・ロボット―思考なき知性)、現代思想、1990年3月号
専門向け
中安信夫:初期分裂病、星和書店、1990
中安信夫:状況意味失認と内因反応―症候学からみた分裂病の成因と症状形成機序、臨床精神病理11:205-219、1990
中安信夫:分裂病症候学―記述現象学的記載から神経心理学的理解へ、星和書店、1991
中安信夫:初期分裂病/補稿、星和書店、1996
中安信夫:方法としての記述現象学―<仮説―検証的記述>について―、臨床精神医学28(1):19-29、国際医書出版、1999
中安信夫:精神病理学における「記述」とは何か、臨床精神病理14:15-31、星和書店、1993
土屋俊:移動ロボットの設計原理に関する基礎的考察、『哲学』第39号抜刷、1989
David Israel, John Perry, and Syun Tutiya : Executions, Motivations, and Accomplishments, The Philosophical Review, Vol.102, No.4, 1993