対他配慮の極点としての自殺

前防衛事務次官・守屋武昌被告について
自殺の美学を考える。

対他配慮のひとつの極点は、
自殺である。
すべてを飲み込んで自殺して、決着をつける。
あるいは、永遠の謎にする。
そこには一種の美学がある。
武士道のようなものだ。

農水大臣が自殺したことは記憶に新しい。
政治家竹下氏の秘書青木伊平氏が自殺したことも記憶にある。
新井将敬、中川一郎なども自殺として認識されている。
諸説はあるようだが。

日本の古い考え方としては、
責任を取って自殺する、とする様式があるように思う。

攻める側も、自殺したのなら仕方がない、
この件はもう追及しない、となる。

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このあたりから逆算すると、
組織の中にはもう死んでくれという声もあるかも知れず、
そんな声があるかもしれないと守屋氏は感じてもいるのかもしれない。

このような習慣がある限り、
自殺は減らないだろう。

本当に恐ろしい社会である。

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後期高齢者健康保険制度を、もう死んでくれと受け止める。
守屋氏は身内の声として、もう死んでくれという声を想定する。
そのような文化は何か少しよくないような気がする。

いじめが頻発することの背景にも、そんなことがありそうな気もする。

いじめられた側が
気に病んでノイローゼになり、
ついには自殺まで考えるようになる。
それを見ていて、いじめた側は快感を感じる。

なんという陰湿さだろう。
こんな習慣はやめなければならない。
こんな認知の歪みは訂正しなければならない。
われわれみんなの努めである。

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いじめっ子がいても、
負けないでほしい。
みんなであなたを守る。