堀田善衞「ゴヤ」13

〈引用〉67歳、妻に先立たれ、年を取るに連れて一層強烈に政治的、社会的関心を燃やして行く。
●このあたりの、盲目的なまでに生命的で、強いゴヤ。
これは見習った方がいいのではないかと思われてくる。
●単純にいえば、欲しいものは手に入れる執念といってもいい。
そのためにはエレガントも何もない。使える手段は何でも使う。それが人間の総合力である。
●そのためには、「欲しいもの」を自覚することが必要である。そこがぼやけているとき、大きな力は出ない。

〈引用〉肖像画では画家とモデルは争うことが出来る。この弁証法が奥深いところで働いて画面の人物を押し出してくるのである。
●肖像画は不思議なものだ。そうか?そうではないかもしれない。単にあがめているだけなのかもしれない。同一人物を複数の画家が描いている状況で比較検討すればいいのかもしれない。
肖像画が人物の内面を照らしだとなんていう言い方も、ロマンティックすぎるのではないか?
何か適当に画家としてテクニックを駆使して描けば、あとはそこに、見たい人が見たいものを見るだろう。それだけのことだ。いくら何でもそれは見えないはずだといっても、そんなものは、ガリレオ・ガリレイの、それでも地球は回っている、との発言に似たものだ。
その時、ガリレオ・ガリレイは、立派だったのではなくて、人間集団の力学を理解していなかっただけである。

〈引用〉ゴヤの後に続くものは文学の他にはあり得ない。スタンダールであり、トルストイとドストエフスキーである。
●この点については、堀田先生は何度も言及している。トルストイとドストエフスキーがロシアに登場し、スペインに登場しなかったことについて、唯物史観的説明を求めているかのようである。

〈引用〉「五月の三日」は「美」とは何の関係もない。美であるどころかむしろ醜である。絵画でありながらも正視するに堪えない真実である。
古典主義的な美と芸術の離婚がここに開始されている。文学への接近が開始されている。「ここから現代絵画の幕が切って落とされるのである。」(アンドレ・マルロオ)
●いいことだ。宮廷お抱え画家の時代は終わるがいい。日本ではまだ続いているようだ。しかしそれはまた、日本の画家たちが、自分の無力を知り、ロマンを抱かず、ただ絵を描いて、火宅を生き、それで人生なのだと了解している、大人だからである。大人というものは子供にはいつでもみじめな現実主義者に見えてしまう。子供は生活費を心配しなくていいのだ。

〈引用〉人間を見るについての不信から発したリアリズムの時代のあけぼのである。絶望からの出発である。
●不信から出発するリアリズム。絶望を根本として、そこから組み立てる哲学。そんなことをむかしバートランド・ラッセルも書いていた。
●不信から出発して絶望に至るなどという底の浅い一直線の哲学ではない。不信と絶望という、それ自体行き止まりの事態から出発して、なおも、生きる力を発生させる哲学を求めている。盲目的と言ってもいい。断層があり、そこを、不可思議の力で乗り越えるのだと言ってもいい。そこにはどんな力が存在するものか、今のところ合理的には説明できていない。科学の諸仮説は、どれも、そうしたロマン主義的な力を否定する方向で発展している。たとえば宇宙論、進化論。そういえば複雑系の話など、たとえ話に持ち出されるだけで、人類の頭を少しでもよくしただろうか?