高輪は高縄だった?

港区のページから引用

「高輪」は当時は「高縄(たかなわ)原」と書いた所で、江戸城を攻撃した小田原北条軍が、守る上杉軍と激戦を展開したと軍記物語にあります。戦国時代が始まった頃の大永4年(1524年)のことでした。
高輪とは高縄手道(たかなわてみち)、つまり、高台の上のまっすぐな道の意味の略だといわれます。ただしこれも異説があって、もっと古い文治5年(1189年)の「吾妻鏡」にある高鼻和太郎と関係があろうとか、高台突端の高端(たかはな)だとか、白金村にあった玉縄の池がなまったとかの説もあります。いつごろから高縄の文字になったか、最初は江戸時代の「正保郷帳」(1644年ごろ)に見られます。
また、高縄原合戦を記す軍配に、合戦のあと一ツ木(ひとつき)の原で勝ちどきをあげたと書いてあります。