政治原理としての機会の平等

政治原理として機会の平等がいわれ
それは結果の平等が社会主義的原理であるとされる場合には
機会の平等は自由主義の原理であるとされる

しかし原理としておくには
機会の平等とはいっても、機会とは何で、何かどの程度平等なのかという点を考えると
曖昧なのであり原理としておくにはすこし恣意的だという気がする

障害者をどう処遇するかを考えてもらえば分かりやすいと思う
正社員、派遣・フリーターの二項ではなく、障害者を加えた三項で考えて欲しい。
そして同じ原則を適用して欲しい。

機会の平等を保証してあとはどこまでも積極自由というのが新自由主義とかリバタリアンに近いと思う

リバタリアン的のひとつでアナルコ・キャピタリズムでは
相続財産の違いで人生のスタートに差がつくのはよくないから
相続税は100%にしようなどといわれる
そうすると政界の鳩山兄弟の場合も自分で資金作りから始めないといけないわけだ

お金だけではなくて
血縁、地縁、人脈、閨閥、健康、才能、いろいろなものが総合して関係してくるので
お金だけで評価はできない。
お金はあまり動かないけれどもいろいろと重要なそのが相続されている場合もある。
教育を含めてスタートラインで差がついていて
機会の平等が保証されていない

平等ではないが、機会はゼロではないという程度の保証だろう

遺伝子が違うことは難しい問題だが
言われるほど違わないことも事実である

現状では格差社会是正とか反貧困といわれていて
結果の不平等を政治の手で訂正しようという動きだ
極端に言えば、
がんばった人の取り分を困っている回してあげなさいということで
マラソンの途中で怪我をした人にも
マラソンの途中で居眠りしていた人にも
もともとマラソンを走れない人にも
賞をあげなさいということだ

ここが問題点でみんなが途中で居眠りしていたわけではないという意見になる
一所懸命やったのに報われない社会でいいのかとの話になる

しかし一所懸命が報われるのなら話は簡単である
正義は最後には必ず勝つのなら
誠意は必ず報われるのなら
汗は必ず報酬になる「はず」なら話は早いのだ

努力しなくても足が速い人がいるし
努力しなくても計算の速い人がいる

汗が正当に報われる社会であって欲しいのは山々であるが
そのような社会はいまだかつて出現したことはない
汗を正確に報酬に変えることができない

結果の平等を目指した社会主義は破綻したわけだ
それは働かないのに平等を要求したからだ

一方、行き過ぎた自由主義といわれるものは
汗も流さず金だけ儲けているとおもわれているようだ
そんなのは許せない
派遣労働者を人間として扱えというものだ

嫉妬の感情がないというわけでもない

しかし原点に立ち返れば
機会の平等が保証されているか
スタートラインは一緒なのかということである

正社員と派遣労働者のスタートラインはあまり違わなかっただろうと思う
学校社会では特に差別はなかっただろうと思う

全員が学習院などには入れないのだからそこでは選別が働いてしまうけれども
大半の公立学校であれば特にスタートラインの差はないと思う

そこだけを保証していれば政治の責任としては十分なのだという議論も成り立つし、
それは強力だと思う
なかなか論破できないだろう

だから再チャレンジができる社会などという言い方が出てくる

トヨタの正社員は不正なことをして正社員になったわけではない
その正当な努力を尊重する必要はないか
あるいはどこまで尊重すればよいのか

トヨタの正社員は怠けていて
派遣は超過労働も進んでこなしていたか

政治の決定で結果の平等に傾けるとは、つまり、
トヨタの正社員に、派遣労働者の何人かを養えということに等しい。
トヨタで雇用しなくても国家が生活保護などの給付によって救済すれば同じ事だ

結果の平等を目指せばモラルが崩壊する
これは動かせないだろう

もしモラルが保たれるならもう一度社会主義にチャレンジすべきだろう
それが理想であることに変わりはない
才能に恵まれた人はみんなのために働くのである
才能のない人も一所懸命働くのである
そうであるべきだ
結局それは難しいとみんなが言うだろう

憲法25条は生存権の保証であるがそれはスタートラインの平等を
制度して試行することによって結果として達成されればいいことであって
直接お金を支給して達成する性質のものではない
魚ではなく釣り方をとよく言われる

結果の平等としての住居の保証とか最低生活の保障ではなくて
スタートラインの平等の保証を考えるべきなのだ
スタートラインから先は各自の責任である
途中で居眠りしていた場合には社会は生活費を負担しない

しかしそれは選挙の票に悪影響だ
正社員は選挙に行かないかもしれない
派遣労働者は選挙に積極的に行くかもしれない
彼らを尊重しないと選挙が怖い

実はスタートラインの平等をいうなら
各種障害者についてスタートラインの平等はまだまだ考えられていない
結果の平等についてはまったく考えられていないし要求もしていない
ただ家族が必死で面倒を見ている
親が生きているうちはいいがと不安に思っている

困ったら家族が面倒を見るべきだというのは行政の一般的な方針である
身体障害者も精神障害者もそうだ
派遣労働者が住む場所がないと言うとき
親も兄弟もいないのかということになる

障害者の場合には保護者として法律が定めている範囲と順位がある
それに準じて派遣労働者の場合、住む場所がないのなら
まず親や兄弟を一次的に頼るのが筋ではないかといわれそうだ
そしてそうはいかないのだといえば
人間関係を良好に維持する事を怠っていた結果であるから
自己責任であるといわれかねない

このあたりから議論は不鮮明になる
親が子どもの無職状態に当たって何もしないものだろうか
何もしない親子関係とはどういうものか
原因はどこにあるのか
それは行政が処理する問題なのか

なかなか難しい

いずれにしても、スタートラインの平等の原則を障害者を含めて築く事を
構想すればよいのだ。
誰でも努力した人は幸せになれる社会を構想する。

そしてここで努力、汗とは何かの問題になり、また行き止まる。

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行政の論理とは別に企業の論理がある
雇用よりも利益だといえば冷酷に聞こえるが
企業の存続といってもいい

経営者としては、臨時雇いだから雇用の調整弁にする、
正社員だから雇用を守るというような硬直した態度で
経営がうまくいくはずはない

企業はどこまで社会不安に対する緩衝材の役割を果たせばいいのか問題になる
しかし国際競争をしている場合には
政治目的だけで動くわけにはいかない

本心をいえばどさくさ紛れにでもいいから役に立たない人は
正社員でも派遣でもいったん切りたいのだ

そして退職金割り増しなどの条件を提示するのだが
能力と自信のある人ほど早く退職して独立してしまう

会社側にノウハウがあるのではなく
個人の側にノウハウがある
だから独立できる
独立の危険は健康状態などである
健康を害したときには企業内にとどまった方が安全である

しかしながら企業としても限度を超えて失業者があふれることになれば
消費者がいなくなって困る
だからここでは手加減が必要になる

株主へのメッセージとしては利益のために会社を守るであり
国内政治向けとしては雇用維持のためにまず一時的に会社を守るである

いつでも首切りをしてきたではないか
今回だけどうして特別なのかとも思う
どっちがどさくさに紛れているのかも怪しい

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首切りをするなと言う延長には
会社が存続しなくてはいけないはずだ。

そこが見えてしまっているので経営側は強気だ。
会社内で雇用維持派と利益維持派との対立があるわけでもない。
結論は決まっている。
将来の雇用を考えるためにも利益の継続が必要である。

この局面で政府の要請に従って雇用調整を手加減したという貸しを作れば
企業はあとで何を要求するか分かったものではない
そもそも地上デジタル移行などはすんなりと結論だけが押しつけられている印象である

実際、解雇された人たちに労働能力があるのなら、
自分たちで第二トヨタを設立して自動車生産するくらいの企画があってもいい。
そんなことはできないだろうから第一トヨタにしても無理というものだ。

たとえば解雇された人たちが有能であると中国が評価してくれて
招かれるとかの展開であれば
それもおもしろい。しかしあり得ない。
中国人は充分に勤勉で能力も高いのである。

働きたいのに仕事がない、
それはどの程度真実であるかということにもなる。

もともと不安定な契約なのだからもし雇用が維持されなかったらどうするかと
派遣労働者・期間労働者は考えなかったのかと反論されもするだろう
そもそも最初からそういう約束だったはずだと押し切られる

そもそもの約束を変えるのは変える方によほどの理由がなければならないことになる

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いずれにしても
スタートラインの平等の原則をいうならば障害者も含めて欲しい。
結果の平等として現状を訂正するのなら、そのときにも、障害者も含めて欲しい。

そして障害者の困窮は景気循環のせいではないことを思い出して欲しい。
むしろ純粋に制度のせいなのだ。

ベーシック・インカムの制度などがあれば障害者の場合にはずいぶん違うのだけれど。

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金融危機だからとか
格差が拡大しすぎたからとか
短い目で見るとそうなるけれど
長い目で見ると資本主義・自由主義は根本的にそのような正確を内蔵している
修正してもうまくいかなかったし
さてどうするかということだ

3年待てと言われて
3年は何とかしのげるようにするからと言われて
結局また同じだろうと思う