目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ。小田島雄志

Ⅴ 目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ。
            (ジュリアス・シーザー 一幕二場52行)
   For the eye sees not itself,but by reflection,
   by some other things.

 これはブルータスのせりふです。シーザーの話はご存じでしょう。これの種本は、プルターク、プルタルコスの『英雄伝』です。シェイクスピアはそれを種本にしています。その英訳された本の、形容詞まで使って書いています。
 ジュリアス・シーザーが、政治家として優れていたと思うのは、例えばブルータスと、ブルータスの妹の亭主、義弟になるキャシアスという男に、法務長官のようなひとつのポストを争わせます。これは上に立つ者のひとつのやり方でしょうね。
 これも私の好きな野球の例ですが、川上(哲治)監督の巨人九連覇というのがあって、あの時、川上の実際の戦法、戦術は、「ただ石橋を叩くだけで渡らない」と言われたくらいの堅実な方法です。あれでは勝てるはずはないと思いましたが、実際に勝てたのは、あのONがいたからです。ではONがなぜあれだけ活躍したかというと、川上は常にその年最高の一塁手、三塁手をぶつけるんです。例えば早稲田に木次(文夫)という一塁手がいて、東京六大学の三冠王になりましたかね。王(貞治)がいるのに木次が来たって、木次は使えない。だけど、木次が来た以上、王はがんばる。三塁には、やはり関西六大学のトップバッターになった、難波(昭二郎)というのを採る。長嶋(茂雄)もおちおちしておられないので、がんばると。ONがあんなに長続きしてがんばったのは、川上のそういう、常に争える人材を持ってきて争わせた、ということにあるのでしょうね。
 シーザーもそれをしました。プルタークによるとシーザーはもしかしたらブルータスを、わが子かもしれぬと思っていたようです。実際に、ブルータスのお母さんというのは、かつてシーザーの愛人でした。どうも計算すると、ブルータスを生んで二年後にブルータスの父親と結婚している感じですよね。今さらDNA鑑定というわけにいかないので確証はないのですが、シーザーはブルータスをわが子かもしれないと思っていました。だからブルータスが反乱を起こしたとき、たちまち潰されて、ブルータスは川の葦の陰に隠れて一夜を明かしますが、結局みんな捕まる。ほかの者はみんな断罪されるのに、ブルータスだけはかえって重用される。シーザーは明らかにえこひいきをやっています。
 ブルータスのほうでも、シーザーが彼をわが子かもしれないと思っていたように、シーザーを父親のように敬愛していたでしょうね。しかし、ブルータス家というのは、代々共和主義者で、シーザーがシーザーたらん、皇帝たらんとする野心を持った場合、共和主義者としては、これを討たねばならないのです。
 こうした悩みをブルータスは抱えていて、一方シーザーを恨んでいたキャシアスのほうが、シーザーを倒そうと、不満分子に声を掛け兵を集めようとすると、みんなが口を揃えて、ブルータスが仲間に加わるならば、俺も加わると言います。ブルータスというのは、公明正大な士と思われているから、彼がいれば、正義は我にありということになると、みんなが言います。そこで数年間口も利かなかった仲だけれども、キャシアスがブルータスに近づいて、シーザー暗殺の士に加わらないかという時に、キャシアスは、君は自分というものが見えているのか、と言います。するとブルータスは、「いや、目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ」と答えます。要するに周りの人たちの自分を見る目が、尊敬か、軽蔑のまなざしかで、自分が尊敬されているかどうかが見えてくるというのです。そこでキャシアスが弁をふるって、とうとう彼を一味に加え、ジュリアス・シーザー殺しまでいくわけです。
 このせりふ、確かにもう自分で自分というものがいちばん見えないのかもしれない。どうしても特に自分がいい思いをした経験があれば、自分を見る目に、僕はそれを慣性の法則があるというのですが、いつまでもその残像が残っている。したがって、今の自分はもう力がないとなかなか思いたくないし、思えないんですね。
 まだ山本浩二とか、衣笠(祥雄)とかが現役で、広島を優勝に導いた頃、今はもうなくなっていますが、渋谷のある飲み屋でよくこの二人に会いました。西武にいた東尾(修)、愛称でとんびと呼ばれていましたが、彼ともそうです。酒を飲んでいるとみんないいやつです。本当にみんな好きになってしまいます。
 衣笠がいよいよ引退するシーズンの夏頃に、やはり彼と飲んでいて「もう衣笠さん、あんたなら次のカープの監督だろう」と言うと、「いや、俺はだめですよ。今度辞めたらもう潔く身を引きます」と言うので、「まだやれるだろう」と言ったら「俺よりもお客さんのほうがわかっています」と言いました。どういうことかと言うと、チャンスに自分がバッターボックスに入ったら、昔は観客全体がウォーという尻上がりの声で盛り上がってくる。ウォーと下から盛り上がった声に乗って、ホームランを打っていたと言います。ところが最近では、自分が、チャンスにバッターボックスに入って、さあ打とうと思うと、観客がア~アと声を下げていくと言うのです。それで畜生と思って振っても、元はフェンスを越えたのが、外野手の定位置で取られちゃう。「俺より先にお客さんが知っていますよ」と彼が言いましたので、シェイクスピアが言っているのはこれだなと思ったわけです。
 雑談ばかりしておりますが、衣笠でついでにひとつだけ言っておけば、僕は広島の大学に講演を頼まれて行って、帰りに大学のほうでタクシーを呼んでくれて、広島駅までお願いしますって言ったら、愛想の悪い運転手が「フン」というだけなので、少し機嫌よく走ってもらいたいから、「僕は東京から来たんだけれども、衣笠や浩二と時々飲んでいるんですよ」と言うと「フン」と全然反応がない。はずしたなと思って、黙っていると、駅に着く前に、左に入っていくんですよね。ああ、こっちに行くと遠回りになると思ったけれども、黙っていたら、急に途中で住宅街の真ん中でとめて、「お客さん、衣笠のうち」と言ってわざわざ回ってくれたんです。衣笠本人にその話をしたら、「ああ、そうですか」と笑って、「小さいうちでしょう」。本当にたいしたうちじゃなかった。
 そんなことはいいとしまして、自分というのはなかなか見えないというのは、皆、何かやっぱり自分にとらわれているんでしょうね。

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君は自分
というものが見えているのか、と言います。
するとブルータスは、
「いや、目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ」と答えます。
要するに周りの人たちの自分を見る目が、
尊敬か、軽蔑のまなざしかで、
自分が尊敬されているかどうかが見えてくるというのです。

確かにそうで、これはわたしが一時かなり考えた題材だ。

それは
自分のことは自分が一番よく知っている
他人に何が分かる
まだ話していないこともたくさんある
などといった類のことで
要するに他人は自分を完全に理解することはできないと拒絶する人たちがいるのである

しかしガンの末期に死の時期を告げるのは自分ではなく医者である
科学や統計は意外なほど客観的な真実を告げる
自分は例外ではありえず
統計の数字であり
自然法則の支配内の存在であった
たったそれだけなのだと感得しつつ死んでゆく

主観と客観ということでいえば、
主観も客観のひとつに過ぎない。
一人の人間について観察する場合に、
自分のことだからといって特権的な立場にあるわけではない。
所詮偏った情報を元に判断するしかない。
主観も客観のひとつと考えて、特権的立場を排除し、
いくつもの客観を並べて検討した上で、物事を決めたほうが賢いだろう。

そしてアピアランスとリアリティの問題になる。
自分が自分を観察している内的過程から結論されるものがリアリティだとするする説は素朴すぎる。
そして他人がわたしを見る、その見方は所詮アピアランスだとするのも、素朴すぎる。
他人が自分を見るのも、自分が他人を見るもの、すべてはアピアランスである。

アピアランスを集めるしかなく、そのレベルは様々である。
その情報の中から、リアリティに至ることは、難しく、超越が必要である。

そのように、自分には自分のことが見えない。
目は目を見ることができず、
目を鏡に映してはじめて見ることができるものの
それも盲点に入ってしまえば、見えるはずのないものだ。

見かけはそうであっても本質は何なのかというのが問いであるが、
本質は、見かけの総和であると結論できるのである。
知ることができるのはそこまでである。

自分自身についてさえリアリティには行きつけない。
あるいは自分自身についてだからこそなおさらリアリティに行きつけない。
それでいいのだ。自分について自分が特権的な理解者であるという立場は取り消した方がいい。
他人よりもよく見えている部分とそうでない部分とがあるのだ。それだけのことだ。
そして往々にして一番大切なところが、自分自身に見えていない、そういうことがある。
その場合、見たくないから見ないのだという理屈もあり、そうであるなら真実を言う者は疎まれる。

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何かに映してはじめてみることができると言う言明は、結局、自分を客体として外部化してからでなければ、見ることができないということだ。自然状態では自分のことは見えない。
自分を客体化することは自然なことではないし困難なことなのだ。

離人症の場合には、内部に発生する生々しい感覚が欠落し、もっぱら客観的に、感覚することになる。それはもどかしい感覚であるが、ますます一層他人を見る感覚に近い。

しかしそのようなもので充分なのだ。
主観も客観の一部として、
さらにいろいろな客観を束ねて、
やっと自分が見えてくるだろう。

わたしは自分について把握するとき、
主観から出発して、客観は参考意見だとするのは論理的に間違いだと思う。
所詮はどれも勝手な思い込みかもしれない。アピアランスに過ぎない。
しかしそれらを総合することで、
現状で得られる、周囲の人が思い描いている自分というものの平均像が描かれる。
そして自分というものはそれ以外の何の本質も持たないのだ。

それ以外の本質を持っていると思うのは錯覚である。錯誤である。
誤解であり、ときに妄想である。

個人は科学の描くカーブを描いて生きて、死ぬ。

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自分で自分というものがいちばん見えないのかもしれない。どうしても特に自分がいい思いをした経験があれば、自分を見る目に、僕はそれを慣性の法則があるというのですが、いつまでもその残像が残っている。したがって、今の自分はもう力がないとなかなか思いたくないし、思えないんですね。

自分というのはなかなか見えないというのは、皆、何かやっぱり自分にとらわれているんでしょうね。

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とらわれ

やはりキーワードである

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なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ
というとき、
「心理療法家に映して」と思っていい。

心理療法家に映して初めて、見える。

心理療法家は鏡である。

澄んだ鏡でありたい。

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子供の頃、背中に「×」と書いた紙を貼り付けられて、
知らないのは本人ばかりという場面があった。

背中は見えないんだなあと仕方がない感じで思ったし、
特に知る必要もないようにも思ったのだ。

それはそれでいい、とも思う。
また、原理的にそれ以上知りえないと思うので、仕方がない。

この場合、自分自身のリアリティを知ることは原理的に不可能である以上、
留保をつけながら、生きるのに不具合でない程度なら、錯誤のうちにあっても、いいのだと妥協する。