方法化された懐疑

堀田は書く、
「懐疑主義がすべてを否定し去って、判断停止状態に追い込まれても、
個人的経験、経験的事実はどこまでも残る。そこにある確実性の
根拠を見出すことができると、彼は考えたのであった。」
「彼は自己以外のものは何一つ、真に知ることができない、と考えるに至った。」

さて、「自己」の「体験」を、
どこまで信じていいものか?
信じていいはずはない。

逆に問うなら、
幻聴を、「嘘の声」だと否定する根拠は何かということである。
自明のようでいて、そうでもないだろう。

懐疑をはっきりと方法として意識し、
その限界も、常識から、わきまえる、というような書き方しかないのだろう。
また、人間が生きていくにはそれで充分だ。
あえて、幻聴や妄想と、正常状態の知覚や思考との区別を真剣に考える必要もない。