太田治子「心映えの記」

パブリックな意味では、そんなに意味はないかもしれない。
プライベートな世界の中では、
なかなかに好きなタイプの文章である。

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雨上がりの午後、駅に向かってその道を歩いていると、一枚の落葉が、音もなく目の前に舞い降りてきた。そっと手にしたところ、しみひとつない、黄色いつややかな落葉であった。まだ木にのこったままの落葉が多い中で、いかにも先陣を切ったという見事さがあった。葉の上に、にっこりと笑った晩年の母の顔が浮かんだ。明るい元気な母の顔である。今なら、あのことを書けると思った。

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どうして今までずっと純潔でいるのかときかれると、いつも言葉につまった。しかし本当のことをいえば、答えははっきりしていた。この人とベッドを共にしたいと妄想する相手は、妻子ある男性ばかりであった。そもそも最初から、独身男性にエロスを感じたりはしなかったのである。結婚に至る可能性のあるエロスは健全であり、そこに恐怖はない。私にとってのエロスとは、あくまで恐怖をともなったものでなければいけなかった。妻子ある男性とのエロスを考える時、はじめて恐怖が生まれ、胸がときめくのだった。

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描写も分析も、簡潔に過ぎて、物事の多面性を十全に把握するには至っていない。
しかしそれがとても「ひらかな」の世界のようで心地よいのだ。
なぜだろう。
「ひらかな」で、大和言葉で、自分にとっての印象を簡潔に、綴る。それだけでこんなにも心地よい文章が出来上がる。

時間をかけて読んだ後に、わけの分からないものを読まされたなあ、と感覚することも少なくないものだ。
特に、日本語以外の文章だと、しばらく付き合ってみないと分からない。

顔でたとえれば、おとなしい、静かな、「ひらかな」のような表情の、美人である。

読み進めるに連れて自然に自分の肉親たちのさまざまな表情が思い浮かぶ。
そして言葉で多少書き留めたりもする。

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莫言のように過剰な言葉とイメージの人もいれば、
太田治子のように控えめな態度の人もいて、
自分には控えめの態度の方が心地よく、
よい友人のように思われる。