日本的自己愛

自己愛的同一視とうつ病は関係があると昔からいわれているが、考えてみるとはっきりしないところではある。

相手が自分と同じ気持ちを持っていると信じ込むとき、
自己愛的同一視が成立する。

相手が現実的な存在である限り、
破綻が生じる。ここまではいい。
破綻は多くはうつの形をとる。ここがはっきりしない。

師匠と弟子の関係は多くはこのタイプになる。
弟子が成長すると師匠は見捨てられた感覚を抱き、ウツになる。

親身に面倒を見る日本的人間関係は自己愛的と言われる。弟子は自己愛の延長である。

自己愛の対象としては、子ども、ペット、弟子など。

自他が未分化で相手を理想化して、よい関係を想定して関わり合う。
日本的思いやりはこのタイプ。
全体に日本的母性的関わりといっていいのではないかと思う。特有の一体感。
東洋的かどうかといえばよく分からない。
西欧的と日本的の比較対照はよく言われる。

日本的マゾヒズムは相手本位で思いやりがあって共感性が高い。
この場合の共感性は少し意味がずれているかもしれない。共感を強要する感じ。
思いやりも、次の手を読み切って、自分に有利に展開しようという気持ちのようで、
なんとなくまつわりつくべとべとした感じ。

他者の自己愛を重んじる。重んじることでがんじがらめにしていく。重んじることで封じていく。

人権思想はあっても、声高に自分の権利を主張するのではなく、
他人の自己愛を尊重する。
結果として、子どもたちの自己愛を助長する。

母親がマゾヒスティックに尽くし、子どもはナルシスティックになる。
しかしそれは同時に母親がナルシスティックで、子どもがマゾヒスティックにつきあっていることにもなる。
日本的マゾヒズムと日本的ナルシズムは表裏の関係にある。
平たくいうと犠牲になるから尊重しろという約束。
野球で犠牲バントが戦略になっているようなもの。チームのために。

支配と被支配の関係はむき出しにはならず、思いやりと親心の日本的仮面を付けている。

親がマゾヒスティックなポーズをとっていても、実はナルシスティックなのだと分かってくる。
だから子どもは反逆する。
自己愛の延長物と見られている子どももつらい。

会社でも、組織に献身的に尽くすが、それは実は自己愛の満足を要求している。賞賛されたい。
要求が満たされないと逆恨みする。

西洋的自己愛は強欲で人を顧みないで共感がない。
日本的自己愛は日本的マゾヒズムを使う。
いったん自分を引っ込めて、そのことで報われようとしている。
若い世代は自己愛人間の適応様式がシゾイド人間的な形に変化している。
つまり、もう少し対人距離が遠くなり、敏感になり、全体にガラス細工のようにもろくなっている。
傷つくことも傷つけられることもしたくない。
その心性からいえば日本的マゾヒズムは密着しすぎである。

ところが母親の多くは子ども以外に自己愛の対象がない。
特に母親にとっての息子は自己愛そのもののようだ。娘よりも圧倒的に大事だ。
賞賛してやまない。
だから振り込め詐欺も起こりやすい。
俺が困っていると聞くと理性が停止してしまう。