操作感覚の優位について

人間は生まれ落ちて
自然の中に生きて社会の中に生きる

自然法則と社会の掟を受け入れつつ生きていく
その場合は個人が操作できる部分は小さい
ひたすら受け入れる立場であり
自然と規制社会に合わせることが人生の初期での課題となる

だんだん社会が高度になってゆくと生の自然からは切り離される
嵐が来ても家があるし野生の熊に襲われることもなく感染症にもある程度対処できる

社会の掟も最初は家庭の掟だからある程度は融通が利く
少子化社会では母親を操作するようになる
ついでゲームやテレビ、ビデオ、コンピュータと続いて、
「操作する人間」として成長する。

操作感覚優位の人間になる。
これは昔の農家などは人すら天気と作物の成長に合わせて受動的に生きるのと対照的である。
ボタンを押して、能動的に、操作的に生きられるのである。

操作人間は対人関係でも操作的になる。
自分の役立つように動かそうとする。
自分の思い通りに動かそうとする。
そのためには権力関係も金銭関係も男女関係も利用する。

そのようにして他人を操作する意志がある場合には、
他人は正確に言えば自分と対等の人間ではない。
人間の形をした、被操作機械である。
だから黙って操作されていればいいのだと言い放つ人まで出る始末だ。
他人を使用人としか思っていない。

そのようにして自己愛型人間が成立する。
こうして書くとそばに寄るのもいやな感じであるが、
みんな利用価値があると感じてそばによってゆく。
そして利用したりされたりして、
近寄っていったその人も自己愛型の人格であったことに気付く。