魔法 魔術 魔女 奇跡

「ミシェル 城館の人」の中で言う。
魔法も魔術も存在しない。魔法使いや魔女などは、むしろ精神病患者(内部の幻想)なのだから、火刑にしたりしないで医療を施すべきだ、というこの考え方は、人権と人命の尊重に関して、二世紀後の人権宣言に早く先行するものであった。人権という用語もまだなかっただけである。

モンテーニュが魔法、魔術、魔女、奇跡を否定して語る文章の説明である。
キリスト教において例のさまざまな奇跡はどのように解釈したらよいのか、確かに問題であろう。
モンテーニュのように否定してしまうのは、正統の信仰者、例えば、教皇の見解を気にする人から見れば、あまりに危険なことだ。
「医療を施すべきだ」との見解は、分かりやすいものだけれど、
医療の側には、それに応じるに足る蓄積は、当時はなかったと思う。
医療の世界でも、多分、監禁留置だけが方法であっただろう。
当時はまだ滝で打つとか、鞭で病魔を追い出すとか、そんな発想の時代である。

モンテーニュに従えば、
聖書に記載されている種類の奇跡は、
無論、人間の通常の経験の範囲ではどうにも理解できないことである。
従って、信ずるのが危険な事柄に属するので、
判断を保留するのが妥当である。
また、魔術的思考については、反復して生起する状態を見れば、
確かに、思考の異常であり、
精神病理学的な問題があるので、
医学的対処が正しいかもしれない。

実際には現代で言う詐欺師が相当数含まれていたものだろう。
現代ではほとんどが詐欺師となっているだろう。

魔術を本当に信じていればそれは医療の対象となり、
魔術を本当は信じていないならそれは刑法の対象となる。
医療と刑法の関係はこれでいいのかな?
最近のオーラのほら話は、あれは医療や刑法の対象ではなく、
「ショー」「見せ物」または「芸」なのだろうか。
見立てる方は、もちろん信じていないだろうから、
判定は、オーラを見立てる人にあるのではなく、
見てもらう方にあり、その人が、これは「仕事」と認識していれば、
「ショー」なのであり、「本気」と認識していれば、詐欺になるのだろう。
でもまた、「当たり前のこと、これは仕事に過ぎない、
こんなことを信じるなんて病気だ」と言い張ったとしたら、
どうなるのだろう。
詐欺の立件は難しいだろう。