集団内でのポジションを決める機能としての性格

性格についてもう少し

性格傾向について二つ考える
1.もともとその人の脳回路の特殊性 穏やかな性格など

2.集団内でのポジションを決める機能としての性格 男性ホルモンなど

この二つが重なり合っている

1.については代々ばくち打ちが多いとか、けんかで死んだおじさんがいるとか、漁に出かけてかえってこないおじいさんがいて伝説になっているとかいろいろある

2.については、たとえば自民党内の派閥の争いや派閥内部での争いを見てみると考えやすいと思う。
皆さん地方に帰れば殿様の身分で何不自由ないのであるが、永田町ではおとなしく順番を待っている。
それは派閥のボスがにらみをきかしているからであり、さらにその上に権力構造があるからであり、わがままを言ったところでどうしようもないくらい固い仕組みがあるからである。
一時は時代の寵児のように振る舞ったとしても、いったん失脚が画策されると、ほとんどはそれでおしまいである。
加藤氏は最近復活に向けて動きがあると伝えられる。小沢氏は敗戦から立ち上がった数少ない人間だと思う。
若かったから引退するには早かったし何しろ豪腕だし援軍もいた。

1.については遺伝的に規定されていて、生存戦略の一部となっているのだろう。

2.については、集団内でのポジション決定なので、地方ではボス、中央では順番待ちということが起こる。
つまり、所属集団が異なれば、役割も異なることになる。
鶏口牛後がいわれる。

昔から集団内での役は限られていて
リーダーは一人でいいし軍師がいて宴会係がいて道化師がいてという具合だ。
将棋の駒の配列に似ているかもしれない。
あるいは野球のチームに似ているかもしれない。ピッチャーの束ね役と野手の束ね役など。

いろいろな集団で似たような構造があり、
収まりきれないキャラクターがいる場合には、集団が割れたり、移籍したりするものだ。

この構造が変化するときに、
精神のきしみも起こる。

クラス替えが起これば
性格変化が起こる。

進学すればまた集団の性格が変わるので
個人の役割も変わる。

そのような意味で言えば、個人の運命には偶然がかなり作用している。

地域の集団や学校のクラスなどはお互いに見える集団なので分かりやすいが、
ネット社会での集団はわかりにくい。

一人一人のポジションが決めにくくて、混乱がしばらく続く。
ネットで露出する人格は一部のみであるから、順位制社会を構成とするとしても難しい。

そもそもネット社会は水平結合の社会構造が似合うので、
縦構造のヒエラルキーは構成しにくいはずである。

実際、合理的な知性の集団でネット社会を構成すれば水平ネットを作る。
やや遠い関係でシゾイドタイプになる。

しかし人間は知性ばかりではなくて、権力性や崇拝性、サディズムやマゾヒズム、
いろいろあるので、敵対する人間や崇拝する人間などが現れて、
知性の社会ではなくなってゆく。

実際、ネット社会では水平ネット結合が適合性があるのに、
そこに縦社会ヒエラルキーの感覚を持ち込むので、歪みが生じる。

縦社会はいじめや崇拝を含むものだが、
ネット社会ではそれが増幅されて際限なくなってしまう傾向がある。
実際の社会にあるネガティブフィードバックがかかりにくくポジティブフィードバックになってしまうようだ。

ネット社会は道具としては水平的結合なのに
参加する個人の心性が縦社会的結合だから
自然社会にあるはずのネガティブフィードバックが働かず
構造が不安定になり、性格傾向は不安定に増幅される。

役割が決まるまでは争うことになり、
性格は先鋭化する。