ナルシスト

ナルシストは鏡をみて自分にうっとりしている
でも普通の人もうっとりはしないけれど
見慣れている分だけ自己肯定していると思う
その顔があなた自身ほど好きな人はこの世には多分ひとりもいない

つまりその程度にはナルシストだということだ

押尾学がナルシストだといわれるが
そんなこともない
美男美女の子供が可愛いのは事実だろうから
なにも現実を歪曲して信じ込んでいるわけではない
押尾学が普通の男より格好いいのは事実だし
奥さんが普通の女よりきれいなのは事実だろう
そんなことを何かの文脈で言っただけで
ナルシストといわれるのでは
ナルシストにとって迷惑だ
本当のナルシストは事実を完全に歪曲するのだ

でも、程度の軽いナルシストならいくらでもいるし、
軽いナルシスト成分がないなら、
もうこの先、生きていることが出来ないほど、絶望するだろう。
だって、自分の間違ったナルシスト的成分の他に、
生きている理由なんてひとつもない。

他人のことについて考えれば、
分かるだろう。
あの人がこの世からいなくなっても、
この世としては特に損失ではない。
CO2削減になる程度の違いである。

自分のことについては誰も冷静には考えられない。
自分も少しはいいなどと思っているものだ。
それが大きな間違いである。

だから、ナルシストは、特に大きな勘違いをしているわけではない。
ただ、普通の人はそれを外に出す時と場所を心得ているだけだ。
子供が母親の前でナルシストになるのは日本では許容されている。
母親が共同でナルシスティックな幻想を作り上げている。

しかしそれは母親との関係の中でだけ許されることだと知っている。
その程度の常識は誰にでもある。
常識がなくなるのは夫婦である。
男性は往々にして妻を母親と混同する。
原始的なナルシストぶりを堂々と発揮してしまう。
最近の女性は男性に対して競合的にナルシストだから
もうまともに正面衝突してしまう。

それ以外では、
ナルシストは封印しているようだ。
それが社会性というものである。

押尾学はむしろ自分の役割を心得ていて
適切な話題を提供しているといえるだろう。

河村隆一のナルシスティックな芸風も
なかなかまねの出来ない、練りあげられたものだと思う。

だから、生きている以上、本質的にナルシスティックであるところまでは
認めようではないか、お互い。
みんな自分が一番上等だと思っているのだ。
ただそれをどの場面でどの程度露出させていいかという美意識の問題である。

だれでも性器を持っているが、
いつもそんなものを露出させているのではないことと同じだ。

時と場所を間違えている場合、
知能の問題で、馬鹿なのか、
世界観の問題で、本質的にズレているのか、
区別しないといけない。

うっかり露出してしまうという場合、
本人がナルシズムに鈍感で
ナルシストとしても小さなものである場合もある。
巨大なナルシズムはうっかり人に見せられないからかなり慎重になる。

だから外側から分かるナルシストの方が
実はあんまりたいしたナルシストではないということにもなる。
必死に隠している人が一番大きな思い違いをしている場合もある。
隠し続ければ誰にも分からないが。

押尾学がもしも俺は世界で一番と完全に思っているとして
そんなことをうっかり口走り
さんざんに叩かれたら
もう生きてはいけないだろう
まあ、多分、悪口も言われるし、ナルシストくらいは言われるな、とおもって言っているのだから、
彼にとってナルシズムは自分の世界の中心ではないのだ
ナルシズムが自分の世界の中心なら
それを傷つけられるのはたまらない
だから傷つけられないように守る

そんな男がいるとして
それを妻の前でうっかり披露してしまったとして
それを大きく包んであげられるか
わたしのナルシズムの方がもっと大きいわ、
だってうちのパパは……などと始めるか。

男が母親と妻を混同してナルシズムを露呈するのと、
女が父親と男を比較して父親を讃美するのと、
似たもの同士ともいえるだろう。
母親がいなければ生きていけない、
父親がいなければ生きていけない、
その構造は似ているからだ。

貴種妄想というものがあるがナルシズムに直結している。