「強くなれ!」と言われたって、なかなか強くなれるものではない

辛くて、しんどいとき、
もうひと踏ん張りしたい、変わりたい、もっと強くなりたい、新しい自分、もっと違う自分になりたいと願う。
どうして自分はこんなに弱いんだろうと残念に思う。

ナチスの収容所は極限的なストレス状況の例であるが、
なぜ、彼らの一部は元気でいられたのか?
なぜ、彼らは過酷な経験に意味があると言えたのか?
人間には困難をパワーに変える能力があるのではないか?
彼らが困難を乗り越え、人間的に成長したのはなぜか?

収容所体験はフランクルが有名だが、アントノフスキーは過酷なストレスに耐える力を
コヒーレンス感(SOC)としてまとめている。

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さまざまなGRR:健康軸方向に慟く因子を汎抵抗資源generalized resistance resourcesの中からその時々の状況に応じて緊張の処理に適したリソースを選び出し,それを有効に活用する能力をsense of coherence(SOC,コヒーレンス感)と名づけた.SOCは健康生成論における核心をなす概念で次の三要素から構成される.
①理解可能感sense of comprehensibility:人生にはしばしば健康に関わる要求,要請が存在するが,それには秩序があり予測と説明が可能であると理解する能力(認知的要素),
②処理可能感sense of manageability:そのような要求に対応するためのリソースが手元にあり,有効な対処の手段をもって行動を起こすことが可能であるという感覚(対処的要素),
③有意義感sense of meaningfulness:その要求,要請に対処することが自らの人生にとって意義のある挑戦であり,自己を投入して関わるに値するものであるという確信(感情的要素).

このうち有意義感は継続的,動的な信頼感の程度を示し三要素の中で最も重視されている.すなわち,有意義感の高い人は,自分の運命の形成過程にも積極的に関わり,人生に不幸な経験が課せられてもその挑戦を進んで受け止め,それに意味を見出そうとし,それにうち勝つため最善を尽くす.これはFranklがいう「意昧への意志」と共通した考え方であり非常に興味深いところである.
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簡単に言うと、「この苦難にも意味がある」と信じられるかどうかである。

処理可能感については、原爆やアウシュビッツは限界を超えるもので、
人を無力感に閉じ込めてしまうのに充分な悲劇だったと思う。

しかしその中でもやはり、この苦難にも意味があると感じている人たちがいた。
それはフランクルの場合には信仰と密接に結びつくのだが、
神を信じなくても、あるいは仮定しなくても、
この苦難にも意味があるのかと問うことはできる。

苦難の中で神や運命について考えるのは自然な成り行きである。

「ストレスに強い人」と聞いて、 思いつくのは次のような項目だ。

・意志の強い人
・楽観的な人
・ポジティブに物事を考える人
・自信のある人
・行動力のある人
・目標のある人
・切り替えの早い人
・けりがつけられる人
・忘れられる人
・目の前のことに集中できる人
・物事の多面的な意味を考えられる人、いろいろな方向から考えられる人
・しかし実はいちばん大きな要素は、信頼できる他人の力を借りること

豊かな人生を送るために必要なのは、ストレスを避けることではない。たぶん避けられない。
真に幸せになるためには、元気になる力・ストレスに対しての復元力を備えることだ。
元気になるにはどんな他人が周りにいるかも大切な要素になる。
宗教の力の半分は、ともに信じる人の共同体の力である。

あなたは運がいいですか?と聞かれて、
自分は運がいいと答える人は、ストレスに対処する能力が高いといわれる。
こういう人は、困難なことに意味を見いだすのがうまいからだ。
例えば大切な人の死に直面しても、いつまでも嘆き悲しむのではなく、
「その人の死」が自分に与えた意味について考えることができる。

品難に直面して、その意味を考えるという点が、
フランクルもアントノフスキーも共通に強調している点である。

「大切な人の死が、命の尊さを教えてくれた」と理解する人もいれば、
「彼の死によって、他人のやさしさが身に沁みた。友人の存在の大きさに気づかせてくれた」と考える人もいる。

一方、運が悪いと答えた人は、「なんて俺は不幸なんだ。なんで俺だけこんなことになるんだ」と、
うまくいかない理由をすべて運(=神様)のせいにしている。
出合った困難に意味を見いだせず、
周りにある自分を元気にしてくれる力に気づかない。
意味を見いだせないのだから、運のせいにするしかない。
そっと傘を差し出してくれた人にも気づくことなく、いつまでも嘆き続ける。

ストレスに対処する能力の高い人とは、ストレスを感じない鉄人のことではない。
人生の雨に濡れた時、自分や他人の傘を上手に使える人なのだ。
どんなにいい傘が近くにあっても、どんなに頑丈な傘を他人が差し出しても、
それに気づかなければ意味がない。
傘の存在に気づくことが、何よりも大切なのだ。

「ストレスの雨」に濡れてしまっても、
元気になる力(傘)の存在に気づき、乗り越えられれば、ストレス対処能力は高まっていく。
まずは自分の傘を使って耐え、それでもダメだった時、他人の傘を使えばいい。
もし、それでも困難を乗り越えられなかったら、
「今回の失敗を無駄にしないように、一緒に頑張ろう!」と互いに励まし合い、
意味を見いだすことができる。まさしく、ストレスを成長の糧にできるのだ。

もし、「もうこれ以上頑張れない」と思ったなら、頑張るのをやめればいい。
いったん、自分だけで頑張るのをやめて、周りの傘に頼ってみる。
傘は自分の中だけにあるわけではない。
ちょっと視点を変えて見回したら、近くに落ちていることだってある。

他人が差し出してくれた傘を、「かっこ悪い」などと思わないで、ありがたく使えばいい。
思わぬところに、頑丈な傘があるものなのだ。

ストレスに対処する力のひとつは、sense of coherence (SOC)という。
直訳すると「首尾一貫感覚」だ。

心理学分野で広く知られる自尊感情(self-esteem)や統御感(sense of control)などでは、
困った時に他人に頼ることは「依存的な自己、弱い自己」としてマイナスに評価される。

だが、SOCでは「頼れる他者がいる」という環境はプラスであり、
そういう感覚を持てる環境に身を置いていること自体が、
個人のストレスに対処する力を高めると考えられている。

SOCをベースに研究を進めていくと、
他人の力を借りて一つひとつ困難を乗越えたり、ちょっとずつ踏ん張ったりすることを経験するうちに、
人間的な強さが養われていくことが分かる。

 「強くなれ!」と言われたって、なかなか強くなれるものではない。
強くなれないから困るのであり、悩むわけだ。
でも、他人の力を借りながらでも、時間とエネルギーを費やしていくと、
気がついたときには強くなっている。
他人を利用することと頼ることは、全く違うのだ。

アントノフスキー博士がSOCを提唱した1980年代、
彼は日本人のストレスに対処する力は高いだろうと語っている。
日本人には母と子の間に強い絆があり、地域の結びつきが欧米各国に比べて強い。
そして、日本人が持つ「我慢」を美とする文化、なんらかの欲求の充足を延期する行動パターンも、
SOCレベルを高くする要因だと説いたのである。

母子の絆、地域の結びつき、耐える文化、どれもこれも現代の日本にはなくなりつつあると思う。
一方で成果主義で締め付けられ、経営陣は時価会計で短期の成果を求められる。
そんな現代だからこそ余計に、自分を強くすることだけにとらわれるのではなく、
周囲の人々や環境ととも生きている自分を考える気持ちが必要なのだ。

自分を取り巻く環境や人間関係に対する信頼感、
言い換えれば、信頼できる環境や人間関係に包まれて自分は生きているという安心感があれば、
ストレスに対処する力は高められる。

また、自分を必要としてくれる環境があると感じることは、生きる意味を与えてくれる。
それは他人を救うことであるが、結果的には自分も救われることになるのだ。

お酒を飲む、会社をサボる、愚痴を言う…といった行動もある。
これらは一般的には「逃避行動」として、本質的な問題解決には至らないと非難されることもあるが、
実は凹んだ気持ちを戻すための大きな傘になるのだ。
常に回避しているのは問題だが、適切なタイミングで回避するのはむしろ必要なことだ。