北京オリンピック開会式

用を足して買い物をして家に帰り着き、
いつものようにニュースを見ようとして
テレビを付けたら北京オリンピックの開会式の
ライブ放送だといってNHKが流していた。

そもそもわたしの嫌いなアナウンサー二人とタレントらしくて
いやな声だなあと思って聞いていると
手元に情報がたくさんあるのに
驚きました、
あれは誰でしょうねなんて言っていて、
まるで「お母さんと一緒」の放送のようだ。
聞いているほうが馬鹿なのか?
どこかで大人用の放送をしているのか?

誰でしょうかね、サラ・ブライトマンですかねといいながら、
すぐあとに、サラ・ブライトマンの略歴について
NHKらしく正確に伝えているのだから
この人たちの感動の仕方はどうも不思議だ。
中国式の報道に感染してしまったのか。
大人を相手にした伝え方というものが考えられないのだろうか。

見ていた限りでは、
ディズニーランドを10倍にした程度で
10倍にやればそんな風になるだろうなという感じ。

出てくるピアニストとか歌手は小太りで
ちょうどライブドアの元の代表みたい。

一つ一つに監督のメッセージがあるのだと
解説しているが、会場の音がそれで消されてしまう。
解説されないと分からないというのは
実際だめな芸術の見本というものだ。

芸術は沈黙を強いるものだ。

世界中の人たちの心配は、
中国が、日本と同じ方式で世界に存在を示したら、
多分、日本の10倍迷惑になるということで、
今日の開会式を見た限りでは、
多分かつての日本の10倍の迷惑に、実際なりそうである。

中国で発明されたものというテーマだったらしいが、
中国とはどの広さを指し示す概念なのか、とても怪しいのに、
全部「中国」の発明ということになっているらしい。
そして、民主主義と人権という概念はまだ発見されていないらしく、
それが悲しい。
分権思想はなく、中国共産党以外の政党はなく、
共産党員はわいろをやり取りする自由があり、
日本と同じく教員や公務員の任官を決定しているらしい。

公害とか非人間的な労働とか、そんなことを克服しつつ発展して欲しいものだが、
そうは行かないことが現実だと思える。

チベット、新疆ウイグル自治区の問題、宗教問題、など、
問題山積の上に、
日本に売られた毒餃子が今度は中国国内に出回ったらしいとのこと、
しかもそれを日本政府は連絡を受けていて、伏せていたらしいこと、
そんなこともあって、反・感動的な式典である。

開会式で子供たちが実に不自然に笑っている。
可愛い子が多いから
きっとトラウマもひどいものがあるだろうと
思ってしまう。

個人的にはこの手のものを喜ぶのは10歳くらいまでで、
その後知能が順調に発達すれば
喜ぶだけではなく別のいろいろな側面を見て悲しくなるのだろうと思う。
わたしは悲しかった。

乱れのないマスゲームを見ていると
さすが北朝鮮の親分であると思える。
人民を統治する技術はこの程度までにはあるということだ。

人々が権力に従うのは、
貧しさゆえと、暴力ゆえと、二つあるだろうと思う。
中国には二つともあるのだから、人民は従う理由がある。
もし権力側に不都合な行動が見られれば、
本人はもちろん、当局の監視の元にある一族が今後不幸せな目にあう。
人質があるからおとなしくしている。

中国にはいまだに奴隷がいるとの話をきたことがある。
一人っ子政策が貫徹されていて、
しかし現実には二人目が生まれてしまうわけで、
戸籍上は存在せず、国家の保護を受けず、人権もない状態の人びとである。

日本ではむかし、土地の散逸を防ぐため、長子相続が行なわれ、
長男だけが優遇され、次男以下は、都会に出て自分で稼ぐという時代があった。

日本では国土交通省が税金の無駄遣いをして、
どうろ館やどうろのミュージカルを上演したとか言われて、
そんなにもあほだったのかとあきれられたりしていたが、
オリンピックの式典というものはそれ以上であるはずはなく、
規模が大きいだけに、ばかばかしさが際立つ。

死刑になる人からの臓器取出しなども
聞いたことがある。
さらに死刑囚の臓器の売買に並んでいる人もいるらしいとのことで、
なんでもありといえばなんでもありである。

人々が最も貧しく、貧しさから脱出する現実的な方法が思いつかないとき、
政府が甘言を弄しても、人びとは動かない。
ただ暴力により圧殺するのみである。

人びとがもう少しだけ希望を持ち、実際に自分たちは豊かになれるかもしれないと思ったとき、
政府の甘言に人びとは従う。笑顔さえ浮かべて。

そのあと、多少の豊かさを手に入れたあと、
人々はもう少し人間らしく生きたいと願うことになる。
マズローの原則に従い、衣食住と安全が充たされれば、
より人間らしく生きたいと願うものだ。
そのとき、政府が単に高圧的でしかないとしたら、
人びとはオリンピックを喜んだりはしない。
精神年齢が10歳以上ならばオリンピックなど喜びはしないのだ。

中国の人民のどけだけがオリンピックを喜んでいるか知らないが、
喜んでいる人がテレビで笑顔を見せていて、
たぶん精神年齢はどのくらいだろうかと推定できる。

それどころではない深刻な問題があり、
現在の人間の統治技術で解決できるのか、
多民族の13億の民を、である。
しかも戸籍を持たない人びとを含めると14億人、
戸籍があってもなくても、少子には違いなく、
将来は少子高齢化が現実の問題として迫り、
日本の10倍の大きさの問題となる。

歴史の必然は民族の自立に向かうだろう。
その場合に、混乱の時代を回避して、うまく、EUのような共同体に移行できれば、
歴史に学んでいるということになるのだが、
まずいったんソ連のように分裂し、
苦しみを嘗め尽くし、戦火に焼かれ、その後に妥協するという道しか、
おそらくないのだろう。

なにより、宗教問題は大きな深い影を投げかけている。
臓器売買の問題にしても、宗教のない人間に何をいっても、無駄と言うものだ。
利益と、つかまったときの損とをはかりにかけているだけで、
内在的な罪の自覚には至らないだろう。
何しろ、宗教がないのである。

たとえば、子供の愛らしさを平気で利用する。
これはずるいと思う。
子供を登場させることでいろいろな問題に対して思考停止を要求してしまうのだ。
それでいいはずがない。

最近では長野でも何か似たようなことをやったらしいが私は見ていない。
今回は偶然で見てしまったけれど、
大金をかけて、大量のに人間を動員して、さらに非人間的な同調性を強制して、
その結果がこれかと思うと悲しい。

実際の中国人は、従順ではないし、倫理的でもない。
ならば統一の取れた行動を取らせているのは、
一瞬の偶然のバランスなのである。
貧しさからの脱出と、個人の目覚めとのバランス。
貧しさから脱出しかけていて、しかもなお、個人としては目覚めていない、
その状態でこそ、
もっとも、統治技術を発揮できる。

日本でいうなら、創価学会である。
日本共産党も多分おんなじ程度のものになるだろう。

細胞のたとえで言えば、
単細胞で独立して生きている状態と
肝臓の細胞のひとつとして集団に従属している場合。
栄養が充分に豊富なら単細胞で生きて、
栄養が足りないと集団的細胞になる例はよく知られていて、
知った途端に恐怖を感じる。

集団的細胞という表現は統治する側の表現であって、
統治される側から言えばトラウマ体験でしかないのだ。

トラウマを与えることによって他者を支配する方法が
延々と受け継がれてきた。

少数者、子供、女、障害者、異端者、すべての弱者。
トラウマを与える者を強者と定義し、
トラウマを受ける者を弱者と定義する。

トラウマを受けることにより症状に苦しみ、
結果として支配されることになる。

それは具体的な食糧と水の支配権や
火の支配権や
性的支配権に優越して、
心理的支配を確立することになるだろう。

一般にスポーツは心地よい面もあるものだが、
場合によっては敗者に屈辱が刻印され、
練習の場面でトラウマが刻印されることがある。

コーチはしばしばトラウマを与えて支配する人間である。

ピラミッドの頂上に近いものがトラウマから遠いわけでもない。
ピラミッドの頂上に近くなるほど、
大きくて複雑で持続的なトラウマが渦巻いていて、
症状の分析も難しくなる。

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これを契機にして、バカな開会式はやめるのが良い。
そう決心することが今回の開会式の唯一の有用性である。