堀田善衞「ゴヤ」11

〈引用〉狂気の沙汰というものを含まぬ、あるいはそれを囲い込んで排除した、いわば理性一本槍の人間観というものは、人間観としては、人間世界にあって通行権を持たぬものだ、と画家によってわれわれは告げられている。
●狂気の排除。なるほどそうかと思われる一方、「狂気」をどう定義して、そのなかでどのような「狂気」を「人間界にあって通行権がある」と考えるのだろうかと思う。
●また一方、「狂気」全般を排除する傾向にも世間としては理由があると考える。狂気を受け入れてきたのも世間であり、近年になって拒否し始めたのも世間であり、その世間というものは、確かな方針に沿って整合的に判断しているのでもないだろう。

〈引用〉時代の証言者としての芸術家、という、存在ののあり様は、ここに全的に成立している。
●ルポルタージュの活動。
●ブリジストン美術館で出会う、エジプトの、頭がライオンで体が人間の立像、前足が長い長い聖なる猫、それもまたエジプトという時代の証言と見える。

〈引用〉「気まぐれ(Caprichos)」という言葉を自由の代替語として解するならば、
●なるほどね。でも、すこし不賛成だな。

○ゴヤが戦争の悲惨を客観的に描くにとどまらず、その悲惨な現実が彼自身に何を感じさせ、考えさせたのか。一個の人間として何を感じ何を考えたのかを刻んだ。
●先日の川井玉堂などはこのあたり希薄。

〈引用〉すでにわれわれは、人間が何をやらかすことが出来るものであるかについて、きびしい警告をうけていたのであった。
●そんな脳を持った人間が、武器と戦術についてはどんどん発達するわけだから、とめどがない。ピンポイント爆撃とか。あるいは、アメリカのどこかの銀行では、預金をするとピストルがもらえるとか。

〈引用〉喧嘩はしても戦争というものをすることのない動物の世界との対比。

〈引用〉ナポレオンによって創設された近代国家と、それに付随する装置としての近代的国民軍というもの。

〈引用〉スペインからヴェトナムにいたるゲリラ。そこでわれわれの国家単位の現代が終わることになってもらいたいという、いわば現代終焉願望が、この「戦争の惨禍」をくり返し眺めていると私は自分の中に澎湃として湧き起こってきてそれを押しとどめることが出来ないのである。おそらく、この秘められたる願望が私をしてこの「ゴヤ」を書かしめている情熱の根源をなすものなのであろうと思う。

〈引用〉帝国主義とデモクラシイが両立し得ないものであること。