付き合いの範囲

人の話を聞いていると、
その人がどんな様な人たちとどんな範囲で付き合いがあるのか、
なんとなくつかめてきます。
そうした人たちに取り囲まれて、
悩まされたり、不安にされたりしているのが、
その人に人生の一面というわけです。

また、話を聞いていると、
どんな本や映画に影響を受けたか、どんな人物に影響を受けたか、
自然に分かってきます。
何に、どのように、影響を受けているか、それは大切なことだと思います。

一番近い人間関係である、家族とどのような関係でいるか、
大切な情報になります。
いいからいいというものでもなく、悪いから悪いという単純なものでもないのです。
それぞれに独特な関係があるのです。

人生の目標とか目的がかなりはっきりとある人もいます。
遠い抽象的な目的のある人も、近い具体的な目標がある人もいます。

会社の人間関係の「迷惑のかけられ具合」を見ていると、
非対称的で、片面的なのが不思議です。
お互いに感受性があれば、
片面的になることはないのです。
どちらかの感受性の欠如があるのでしょう。

価値観の多様化という時代は、そのような感受性の欠如を容認する社会です。
損をする人も得をする人もあります。

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こうしてみると、
精神療法として、
認知の歪みがどうという前に、
どういう人間と付き合い、意見を聞き、話し合うか、
そちらをまず調整したいとも思ってしまいます。

あまりに成熟した人格が小学生に混じって、
五レンジャーごっこをやっているのは悲しいものです。

読書にしても、もっと今必要でタイムリーな本を紹介できるように思います。
映画も同様。
もちろん、治療者側にも限界がありますから、
多少の試行錯誤は避けられません。

昔話の中で家族のこと、
今目標にしていることが自分の目標になった経緯、
そんな話を聞くうちに、
診察室の中では、もうひとつの対人関係が育っています。
そして新しい目標も育っているかもしれません。

社員にとってはどうしようもない社員の人事問題、
これにどう対処するか、
じっと待てば、どうなるか、
こちらから動けばどうなるか、
押すとしてどこを押せばいいのか。
まさに政治問題です。

でもこれだって、自分の人生を左右するほどの深い人間関係に
行き当たることができるかどうかです。

それがなかったら、生きている意味はたぶん半分くらい。

たとえば、政治囚になったとして、刑務所で読書と執筆で過ごすとします。
そんな生活と、普通の生活の違いは、まさに、現実の、
生身の人間とどれだけ出会うかということです。
本を読むだけならば刑務所でも変わらないでしょう。

生身の人間の生の言葉に接することができるということ、
本物の涙に接することができること、
その点で、心理職は難しいし、尊いものだと思います。
感情労働といわれますが、
じつにそのとおりで、感情をすり減らしつつ、豊かにしていると思います。