間接的な関係

新聞で

誰かと携帯メールでのやりとりをして
けんかになって
そのときばかりは
面と向かって電話で話した

とかいう話

電話で話すようだとかなり直接的になるようで
携帯メールやSNSなどのネット社会の中では
友人同士が話さずにつきあう世界が広がりつつあるのだろうかと
問いかけている

さらにそうした中で自意識ばかり肥大すれば
寛容はますます失われないかと書いている

*****
なるほど
自意識肥大と不寛容は関係があると思う。

対人交流の形式が
直接話したり肌を接したりすることから変化して
間接的にしかもメールでとなれば
感情表出もワンクッション置いたものになるはずだと思う
絵文字を使ったりするのも
直接の言葉を和らげる方向に作用しているだろうと思う

そのような間接的交流の中では
「他人から傷つけられない」ことが主な原則になる。
誰かがうっかり不注意で傷つける言葉を発信したとしても、
間接的で、傷付きも少ないような世界になっている。

傷つけられることが少ない世界はいいことだけれど、
一面では幼児的な自己愛を保存させて肥大させることになる。

イメージで言うと、一人一人の個室が充分に広い子ども部屋に住んでいるようなものだ。
他人が何をしてもあまり気にならない。
用があるときはメールで連絡が来る。
極度なまでに傷付きを回避する世界である。
ということは即ち、自己愛を肥大させる世界である。
部屋いっぱいにまで自己愛が拡大する。
相部屋ならば自己愛もほどほどの大きさで収まる。

直接会って話すときには言葉だけではなくて
視覚要素やにおい、手触り、話の間合い、いろいろなものが
情報となり、相手の心を推定させる。
これはメールでの情報の何倍にもなるので高度な情報判断になる。

言葉以外の要素は実際は大きいので、
だめと言っていても納得してしまったりもする。

言葉の論理はしばしば不寛容なものだと思う。
ノーはノーである。

実際の人間関係では
たとえば夫婦でけんかをしても
生活の中にはあれこれあって自然に仲直りをしている場合も多い
ところが配偶者の親とけんかをすると
なかなか仲直りができないことも少なくない

だからこそ決してけんかなどしないように気をつけている人が多いし
苦手だと思ったら
対人距離を遠くしてあまり交流しないようにしているものだ

しかしこうしたことは不寛容を前提として行動しているようでもある
いったんけんかしてしまったら和解は難しいと心得ているからこそ
慎重に行動している

これは片方だけが寛容でも解決しない問題で
自分だけが寛容でも損ばかりしてつまらないから
自然に対人距離は遠くなり
その距離になれてしまうと不寛容もあたりまえになる

こちらが積極的に寛容な態度をとっていれば
相手も寛容になるという相互性を信じられないところがある
ゲームの理論で二人とも損をするパターンのような感じだ

キレやすい、いらだちやすいこととの関連も
記事では言及されている。
これも他人との距離の問題なのではないかと思う。

ある程度近距離で他人というものにさらされ
慣れていくことでお高いにゆるす感覚や我慢する感覚が生じてくるのだろうと思う

昔から我慢ができないのは
田舎の農家の長男と決まっていたが
少子化もあり都市化もあり
そのような人が増えてしまったということだろう

ではどうすればいいのか

たとえば現代の風景はこう見えている
実際には過密な都市に住んでいても、
心理的には遠く離れて住んでいると見える
細かくいうと批判は届きやすいしいつまでも残るが
友情は遠いし消えてしまう

子ども時代は習い事で忙しくて
友達は遠い
大人になれば仕事で忙しくて
オフで飲むときにも仕事の関係の人が多い
やはり心理的には遠い

遠い分煩わしさはないし
開示するのは自分の一部分だけでいいし
息苦しくなったら距離をとることもできる

マンションの住民同士がお互いをよく知らないのと同じである

共同体はますます仮想の共同体になる
友情も仮想の友情になるかのようだ

恋愛はメールだけでは住まない領域なので戸惑う
しかしこれも現代人で
肌を合わせたからといって
必ず距離が縮まるとも限らない
かえって寂しさを感じてしまう人もいる。

*****
これだけ密集して住んでいるのに
対人距離を遠く保って生活することに慣れている

それは密集していることに対する対策だったかもしれない

しかし携帯電話やネット社会はさらに距離を遠くした

誰かが目の前で刺し殺されているのに
写真を撮る人がいる
という光景

つながっていない
切れている光景

*****
いらだつ
切れる
という光景は
いろいろな面を含んでいるだろうと思う

昔ならいらだっても我慢していただけで
我慢をしなくてもよくなっただけなのかもしれない

本質的にいらだちが多くなっているのかもしれない
その原因としては、
たとえば、暗黙のルールが共有されていないことがあげられるかもしれない

こういう場合、当然そうするだろうという前提が
共有されていない
その場合、あの人はその前提を共有していないのだと納得できれば多少はイライラも収まる
しかしそれは寛容な場合であって
多くは「自分にとって当然の前提を共有していない」ことに腹を立てる
非常識だとかモンスターだとか論評する

社会階層の分化も大きな要因だろう
同じような場所に住みながら
全く違う価値観を持っていることもある