ピコ・デラ・ミランドラ「人間の尊厳について」

堀田善衞「ミシェル 城館の人」で紹介されている。
ミランドラの23歳の時の著作だという。
何かの間違いではないかと疑われるほどの早熟である。
ルネサンスである。

天国、地獄。
神、悪魔。
善、悪。
聖、邪。(ふつう、正邪、あるいは聖俗が対照される。だから、多分、堀田氏の校正ミスか。まあ、聖、邪゛も大意は変わらない。)
中世以来のキリスト教世界は以上のような二項対立であった。
そこに「人間」という一項を付加した。

また、当時は占星術的な決定論が支配していた。
それを覆して、人間の自由を恢復再生させようとした。

アダムはみじめではないし、罪人でもない。
動物のように下等界に生きることもできるし、
精神の高等界に生きることもできる。
自己自身の像の制作者となることができる。

こんな紹介である。
「占星術的な決定論」との言葉が、私には光って見える。

私にとって、現代科学は、究極的に言うならば、
唯物論的決定論の世界である。
宇宙的な規模のマクロなことも、核物理学的なミクロなことも、
決定論というにはよく分かっていないことの方が多いのだが。
考えが足りないから、
自由だと錯覚しているだけである。多分。

それとも、私の認識は、歪んでいるだろうか。
人間には、「決定論に傾く傾向」と「自由論に傾く傾向」の二つがあり、
同居しており、時と場合に応じて、いずれもが発揮されうる、そういうことだろうか。
ときに「決定論」が世界を覆う。
それは時代によって、宗教や占星術と結合し、また、自然科学と結合する。
ときに「自由論」が世界を支配し、
宗教における神の自由を分与された人間というビジョンでとらえることもできるし、
神とは独立した人間というビジョンでとらえることもできるだろう。

それにしても、占星術は現代にも生き残っていて、
それで生活費を稼いでいる人さえいるし、
会社の重大な決定をそんなような類のものに頼っている人達も
まれならずいるようである。
そんな社長に人生を捧げている社員こそいい迷惑である。
「人間の尊厳」を取り戻そうではないか。
もし、もともと分与されているとして。

「人間の尊厳」なんていう目にも見えないものを合言葉のように言って、書いて、
何か仕事をしたような気になっているなんて、
人間はおかしな動物である。
そんなものは、はじめからないのではないかと疑ってかかるのが、
懐疑主義というものではないか?

しかしモンテーニュ氏なら言うであろう、
庶民の生活を広く見渡してみて、
やはり人間の尊厳は存在すると深く納得されるのである、と。

こんな事項を懐疑に含めるか、自明の前提として考えを進めるか、迷う。
そんなものは「立ち止まるしかない懐疑」であり、
懐疑の中でも悪質なものであり、
方法的懐疑にはなじまないと一蹴されるであろうか?