対他配慮性人格障害としたら?

いっそのこと、
対他配慮性人格障害として項目を立てたら考えやすいと思う。

まず、Ⅱ軸の人格障害について、
全般的診断基準は以下の6項目からなります。

  1. 次のうち二つ以上が障害されている。
    認知(自分や他人、出来事を理解し、考えたりすること)
    感情(感情の反応の広さ、強さ、不安定さ、適切さ)
    対人関係
    衝動のコントロール
  2. その人格には柔軟性がなく、広範囲に見られる。
  3. その人格によって自分が悩むか社会を悩ませている。
  4. 小児期、青年期から長期間続いている
  5. 精神疾患(精神分裂業、感情障害など)の症状でもない。
  6. 薬物や一般的身体疾患(脳器質性障害)によるものではない。

それはそうだよね、他の病気ではなくて、もう小さい頃からそんな傾向というわけだ。
そして
対他配慮性人格障害は
1.何がなんでも他人に配慮し
2.それが報いられないと自傷他害の衝動的行為に走る。

くらいかな。

他人に感謝されて、感動の涙くらい流してくれないとすまないぞ、というような
勢いだ。
しかしその対他配慮的行為も、
他人から見れば独りよがりで余計なおせっかいで
大変に迷惑、
そこで嫌がるそぶりを見せると、
もう死んでやるとかいうので困ってしまう。
挙句の果てはみんなお前のためを思ってやったことなんだとくる。

対他配慮により他者をコントロールしようとする
間違った欲望を一貫して抱く者。
それを正しい生きただと信じて疑わない者。
こんな人が昔の「うつ病」だったんじゃないのだろうか。

よく言えば善意の存在が信じられた時代。

いまはそんな人が少なくなって、
対他配慮の軸ははずしてもいいような感じになっている。

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そういえば、前の時代までの対他配慮はなんだか余剰が一杯あって、
いまから思えば、すこし勘違いなんじゃないかと思えるところがあるようだ。

他人にとって何がいいのかなんて
いまの時代では簡単に判断は出来ない。
しかし昔なら、小規模の集団なら、価値の一元化も考え易かったかもしれない。

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日本人の控えめも、配慮も、思いやりも、度が過ぎると
アメリカ人には奇異に映る。
多分、思いやり予算も。

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学者先生の中には、上の考えと逆で、

現代は会社全体が対他配慮的になっているので、
対他配慮できない人のうつ病が多くなっていると主張する
人もいる。

たとえば、
発病の主たる要因は,会社,職場自体の「メランコリ-親和型化」であるというのが筆者の最近の論点である。つまり,今日,職場は勤労者に対し間違いを許さない厳密性と完全主義を徹底し,消費者,あるいは利用者(お客さん,患者さん)などに対し不都合やミスがないよう細やかな配慮を行き届かせる他者配慮性を前面にうち出す。そのため,勤労者は仕事課題において高い水準を要求される。それはある意味で職場の「過剰な正常規範」であり,医療に端的に示されるように,確かにそれ自体はたいへん正しく,善い行為規範を示し,正面から異を唱えることはなかなか難しいものの,普通の人が従うには心身の限界を超える危険を内蔵する。いうまでもなく,職場の「メランコリー親和型化」の背景には,生産性と(国際)競争力をできる限り上げようという企業の論理,および職場のミスや虚偽があれば最終的には訴訟にでも訴える構えをみせる消費者,ひいてはマスコミから注がれる厳しい視線の増加が控えている。


昔のうつ病の場合、

うつ病のなによりの病因は,患者の側のメランコリー親和型性格であり,彼らは際立った几帳面さ,完全主義,他者配慮により,自分に課された仕事を自分の強い信念に裏打ちされて,けっして手抜きをすることなく,全力を尽くしてやり遂げることを目指した。
うつ病の病因には,患者自身が自分で招いてしまって,出口のない袋小路に入りこむという自家撞着の側面が強い。そのため,この種のうつ病の患者に対して,「ほどほどにする」「いい加減がいい」などといった言葉の処方箋が適応となったのであった。

現代では、

ところが,現代の職場結合性うつ病患者に対しては,この種の言葉は見当はずれであることが多い。
グローバリゼーションの時代に入り,会社,職場が勤労者に先んじてメランコリー親和型規範を採用・徹底させているからであり,彼(彼女)らが「ほどほど」「いい加減」に仕事をするものなら直ちに解雇や降格という厳しい現実に直面しかねない。

というわけです。

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つまり、会社全体が対他配慮で貫かれていて、
対他配慮についていけない人が不適応となり発病する、
その場合には、精神症状と同時にバニック症状のような身体系の症状を伴う、
ということです。

昔は対他配慮性でうつ病となり、
いまは対他配慮性がなくてうつ病になる、
そうした事情を、会社全体が対他配慮を要求しているのだと
解釈していいのではないかというわけです。

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我々の感じでは、
社会全体から対他配慮がなくなりつつあると思うのですが。
いかがでしょうか。

会社は適応的な人がたくさんいる場所ですから、
対他配慮があるのは当たり前です。
昔の会社が対他配慮に欠けていたとも思えません。

特に病院などでは対他配慮が当たり前に要求される場所でもあるわけで、
組織的に対他配慮を実行するわけですが、
問題は、それを要求する側に対他配慮がなくなっていることなのです。
対他配慮のない人に対他配慮を要求され続けるから
燃え尽きるわけです。

やはり社会全体から対他配慮の姿勢がなくなりつつあるのではないか、
それよりも、強い自己主張と、堂々とした利己的利益の追求が特徴でしょう。
世の中全体が弁護士と新聞記者と商売人になってしまったかのようです。
わたしは農民が必要だと思うのです。

口先だけで生きていける者はいいのう、
わたしらはお天道様の下で汗を流すしかないでのう、と
悠々といえるようでありたいものです。

そのような者が対他配慮が出来るのです。
弁護士や新聞記者や商人が対他配慮ばかりしていたら商売になりません。
少なくとも弁護士は法廷で双方が立つわけですから、少なくとも一方は、配慮のない人です。
商人も、対他配慮していない人の方が儲かりますし、
グローバルなマーケットではなおさらそうです。
遠慮していたらだめなのです。
農民はそうではありません。
自分が働けばいいだけで、そのことで他人の利益を損ねることはないのです。
米を作る時に勝訴もないし特ダネもないし、
マーケットの勝者も敗者もないでしょう。
ゼロサム・ゲームではないのです。

対他配慮が商売のネタになる頃もありましたし、
いまでもそれは大きな要素ですが、
世界各地で大量生産してそれを大量販売する世の中ではなかなかそうはいきません。
中国で餃子がどのように生産されてどのようにパックされたのか、
アメリカで牛がどのようなえさを食べてどのように大きくなったのか、
チリの鮭はどのようにして育てられているのか、
いちいちこだわっていられないのです。
あまり配慮もせずに機械的に動いている人でなければ何度自殺しても足りません。

ですから、人びとは時代に適応して、
対他配慮を捨てているのだと思います。

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農村で、顔を見れば誰だか分かり、家の現状とか、
その人の歴史とかをみんなが承知している社会があったのです。
それはそれで息苦しいものでしたが、
無責任と言うことはありませんでした。
誰が何をしたかはわかっていたからです。
対他配慮をして、それが無駄になることはありませんでした。
結果として、うまく行かなかったとしても、人々の記憶にはしっかりと残るのです。

誰かが、他人が食べるのだと承知していて、
悪い食品をつくり、
売っている世の中で、対他配慮がどこにあるのでしょうか?

対他配慮のない世界の中で、
過剰に期待せず傷つかず生きていかなければならないのです。

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ずるい人間とは、他人の対他配慮を引き出しておいて、
それにお返しをしない人です。
人の善意を無にする人です。
そのような人が増えれば、
当然、対他配慮は消滅します。
しかしそれがクールというものです。
多民族国家であればそうならざるを得ません。
対他配慮的であるのも、一族の内部でだけです。
マフィアの振る舞いなどが分かりやすいでしょう。
つまりは対他配慮は「ムラ」の中でだけ通用する善意であって規範なのです。
ムラの外に出たらだれしも自分を守ることで精一杯になります。
その事を責めることは出来ません。
そんな中で、なお対他配慮的であるとすれば、
何か勘違いしているとしかいえません。
そこで対他配慮性人格障害と名づけるわけです。

ムラから都会に出てきた純朴な青年は中年期になってうつ病になるでしょう。
それが一つの時代でした。

現代では、もともと対他配慮の根っこがありません。
そして社会もそんなものを考えていません。
マーケットで、買いたい人と売りたい人とが値段を出し合うだけです。

昔はセールスマンが対他配慮的に仕事をしていました。
NHK土曜日のセールスマン物語によく現れています。
お客さんの幸せとセールスマンの幸せは一致しました。
お客さんのみになって考えることがセールスの道でした。

いまはマーケットで売買が成立する、それでいいのです。

ある抗うつ剤を作った人が誰なのか、
いまどんな情報が集まっているのか、
誰も知らず、日本のセールスマンは情報提供して歩き回ります。
自分の作った薬ではないし、
自分の会社の薬ですが、
本当に詳しい情報は分かりません。
この場合対他配慮があるとしても、
本質的に中心的な対他配慮ではありません。

人間が人間に配慮する、その原型が失われつつあると思います。

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昔は対他配慮の過剰ゆえに、
M成分が過剰に反応して反応停止し、
抑うつの波の落ちていきました。
つまり、うつの前には躁があり、その引き金が強い対他配慮だったわけです。

現代では様相が一変しています。
他罰的で自己責任回避的な、会社に部分的にしかコミットせず、
プライベートな生活を守って当然と考えている、
帰属意識は薄く、仕事は出来ないが趣味なら楽しめる、
そんなうつ病です。
むしろ病者としての役割を進んで引き受けるような具合いです。

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執着気質・メランコリー親和型のうつ病の時代にはそれ以外はおおむね、ヒステリーと括られたこともありました。
その後、抑うつ神経症というエレガントな名前で、その実は性格障害を含む病態を指したこともありました。
さらに性格障害を論じる事態になり、
その後は双極性障害に収斂させる傾向があり、
これは抗うつ剤・SSRI・SNRIの功罪が関与している部分です。

人格障害とこのようにクロスしているのならば、
対他配慮性人格障害を立て、
それを人格障害の一型とすれば、
あとは、うつ病・躁うつ病の本体については、MAD理論で整理きると思います。