社会契約説を再考する

採録

6、社会契約説を再考する

植物のような人類

 現在の日本では、遺伝子操作は農作物のレベルでも薄気味悪いものとされているようです。あらゆる食物に「遺伝子組み換え」かどうかが表示されているのです。しかし、私には、このような状態が長く続くとは思えません。

 遺伝子の組み換えによって新たな種がつくりだされるというのは、今ではひじょうにありふれた技術です。技術は存在するが、なにか薄気味悪く感じる。このような状態への危機感から、日本にはカルタヘナ法という遺伝子組み換え生物に関する法律があります。

 2004年2月から施行されたこの法律は、そもそもは多国間条約に基づくもので、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」というのが正式名称です。この条約がカルタヘナ議定書と呼ばれ、それに基づいた条約であるため、カルタヘナ法と呼ばれているのです。

 カルタヘナ法によれば、遺伝子組み換え生物を輸出入したり、栽培・飼育、そして販売する場合には、その開発者や輸入者は管轄する主務大臣の承認を受ける義務があります。しかし実際には遺伝子組み換え技術は諸外国でも広く普及している上、核技術とは違ってひじょうに小さな施設でも可能です。また、そもそも遺伝子を組み換えたという自己申告をするなどという、利益はないのに不利益のみを一方的に課すような法律は、とても実効的であるとは思われません。

 実際、2006年1月には、台湾から光るメダカが日本に輸入販売されていることが判明して、回収命令が出されるといった社会問題が起こっています。これは自発光、あるいは紫外線を受けて光るタンパク質を、遺伝子の組み換えによって多様な生物に組み込む技術です。

 発光するメダカに入れたものは、もともと深海性のクラゲや夜光虫の遺伝子で、こういった光るタンパク質をつくる遺伝子は自然界にはありふれたものです。ホタルが光るのも、同様に特殊な発光タンパク質を持っているからです。いまでは組み換え技術によって、あらゆる昆虫は当然のこととして、マウスやブタなどの哺乳類でも実用化され、通常はもっと重要な遺伝子組み換えの簡単なマーカーとして機能しているのが現状です。

 ところで前述したように、私はベジタリアニズムに対して大きな共感を持っています。哲学者ピーター・シンガーは、すでに1975年に名著『動物の解放』を著しました。そこで彼は、「確かに動物には人権に比肩されるべき多様な権利は認める必要こそないが、しかし道徳的存在としての人間には、苦痛を感じるような生命に対して苦痛を与えてはならない」という倫理的義務が課されるべきだと主張したのです。

 私の感覚にひきなおしていわせてもらうなら、実際のところ、多くの人たちが愛玩しているイヌ以上に知性的でひとなつこい動物であるブタが、毎日大量に屠殺されて食べられているのが不思議なのです。犬を食べれば常識を逸脱しているのに、ブタは我々の日常的食材となっているのです。本当に残念なことだと思います。

 また私は以前から、葉緑素を自分の皮膚にもつような人類がいれば、より人道的なのではないかと思っていました。ベジタリアンはその価値観にしたがって、その子孫に対して、植物と同じように太陽光と水を光合成して糖やタンパクをつくるための葉緑素を細胞質に埋め込むのです。成長した子孫たちは、緑色の皮膚を持ち、晴れた日には基本的には水を飲んで日光を浴びれば、ある程度は空腹が癒されるはずです。つまり植物を食べるよりも、さらに直接的に他の生物を食べなくてもよいという、まさにベジタリアンな哲学の実践者となることが可能なのです。

 グロテスクに聞こえたでしょうか?それとも究極的ロハス、あるいはスローライフを感じたでしょうか。しかし、そもそも多様な価値観の共存するのが、現代社会の実態なのです。

 われわれの祖先は10億年以上ものはるか昔に、自ら太陽光を利用してエネルギーを作り出す植物と、それを動き回りながら捕食することによってエネルギーを得る動物とに分化しました。自分が思うような価値観を実現できるのであれば、私は自分で光合成をして必要なタンパクや糖をつくれるような体がほしいと思います。それは確かに、多くの人びとにとっては「不自然」なことに違いないでしょうが。

人工授精と遺伝子操作

  かつて1970年代に、不妊治療の切り札として「試験管ベビー」と呼ばれてセンセーションを巻き起こした不妊治療法がうまれました。これは、精子の活性が低い男性などの遺伝物質である精子の核を、女性の体外で、女性から取り出した卵子に注入することによって受精卵をつくる技術です。それを女性の子宮に着床させて生まれるために、試験管ベビーと呼ばれたのです。

 当初、驚嘆をもって迎えられたこの技術は、2000年までには世界中でごくありふれた不妊治療になり、現在までに世界で10万人以上の試験管ベビーが生まれています。いうまでもなく、彼らがとくにそのほかの子どもとは異なっているという話はまったく報告されていません。

 遺伝子操作は今後急速にすすみ、近いうちに相互に生殖不可能な、複数の人類が生まれるでしょう。プリンストン大学のリー・M.シルヴァーもベストセラー『複製される人』のなかで、近いうちに遺伝子操作の技術がすすみ、それぞれに交配不可能な多様な人類が生まれるだろうことを予言しています。

 生殖技術は巨大な施設を必要とする核技術などとは異なり、はるかに小規模な研究施設と小さな機器によって可能です。主要な国家のリーダーが、遺伝子操作を禁じたり、反倫理的だと非難したとしても、それはタックス・ヘイブンとなっているような小さな諸国にとっては、新たな直接投資を受け取る機会をえるという僥倖以外の何ものにもならないでしょう。

 そもそも不妊治療などの生殖技術は、人間一人一人が自らの幸せを願う心によって支えられているのです。私たちの誰しもが、健康であり、自分の価値観を実現してくれる子どもを望んでいます。それがスポーツの能力を高める遺伝子であれ、知能を高める遺伝子であれ、人びとはそれらを受け入れていくはずです。

 ハーヴァード大学の学費である1000万円を出せる世界中の弁護士や医師たちが、現に存在するのです。なぜ、彼らが、自らの子どもの将来の社会的成功の可能性をわずかでも高める遺伝子操作に、それ以上のお金をださないと考えるのでしょうか。実際に幼稚園児の親である私がみるところでは、お受験に狂奔する親たちが、そのような技術を拒否するとはとても思えないのです。

 事実を見てみましょう。人工授精の時には大騒ぎした人びとですが、今となっては、人工授精は何の倫理的な問題だとも考えられていません。同じように、人類最初の遺伝子操作は驚愕をもって迎えられるでしょうが、結局、私たちはそのような技術になれてしまうでしょう。

 そのような時にこそ、国家は社会契約説を再考しなければならないのです。それぞれの親の価値観である性質を遺伝子レベルでもった人びととは、現在のイヌ以上に多様にことなった人類であるはずです。そのような個体によって構成される社会では、おそらく民族主義的な色彩はひじょうに弱まっているのではないでしょうか。

 社会と呼ばれるものは、つまるところ人間個人とそのつながりでしかありません。外形や心性において大きく異なった人類が共存するには、ホッブズやロックのいう社会契約に立ち戻る必要があります。多様な人類が平和のうちに共存するためには、納税の対価として警備保障などの公共サービスをおこなうという、一種の社会契約こそが社会秩序を維持するシステムになっているはずです。

 あるいは私の考える無政府社会が実現すれば、もっと純然たる法人組織と個人との契約がなされているかもしれません。そこでは、個人は警備保障会社に対価を支払って、犯罪行為からの身体や財産の安全と、それらへの侵害に対しての事後的な物理的・法的対抗措置を委任することになるでしょう。

 ここ2,3年の間に、ついに宇宙旅行が商品として売られる時代が来ました。私たちは宇宙クルーズ中に起こりえる多国籍の個人間の錯綜した法律関係について、とくに心配することなどはありません。ことなった国籍の人たちは、現存の国際協定や国際的に確立した習慣によって、事前的・事後的な問題を処理することを疑っていないからです。だとしたら、異なった警備保障会社の契約下にある個人が同居するような、未来の宇宙ステーションを想像することは難しいことではないはずです。

ここからそこへ行く道はあるのか?

 リバタリアンな政府とは、広義にいうならば、福祉政策を含まない夜警国家を指すといえます。そこに至る道は、年金や医療などの社会保障制度の一元化から始まり、ついで徐々にそれらを民営の組織にゆだねることになるでしょう。ここで、国家は警察と、国防・外交を担う存在に立ち返るのです。これは確かに実現可能だと思います。

 しかし、夜警国家から無政府に至る道は、断崖絶壁のように閉ざされています。なぜなら、最小限度のものであれ、そもそも権力を手放す政治家も官僚もいないだろうからです。

 しかし、私には楽観的な未来予想があります。

 それはまず、現在の国家主権を維持したままで、自由貿易協定に移住の自由を加えた、ちょうど現在のEUのような協定が、世界的にひろまってゆくことによって先鞭がつけられます。これはNAFTAやASEANでも、同じような枠組みに発展する可能性が高いものでしょう。

 個人は領域内にある各都市で共存しながらも、異なった国家に所属し続けます。あるいは、自国の国民保護や社会保障制度に不満があるのであれば、国籍を変えることもできるでしょう。これを現実的に考察するなら、国籍という社会契約を、ちょうど自動車保険を選ぶように個人が主体的に選んでいるといえるのではないでしょうか。このような状態が十分に長く続けば、人びとは実質的に社会契約を主体的におこなっているといえるようになると思うのです。

 このような多国籍の人間が集まる企業や都市、あるいは社会全体は、そうでない均質な企業や社会よりも快適で豊かなものである必要があります。そうでなくては、そのような社会に魅力を感じる人は減っていき、人口は減ってゆくことになるからです。とすれば、均質な人間による主権国家が地表を分割的に支配する、現在の状態が永遠に続くことになるだろうからです。

 この状態では、いまだに領域国家が社会契約、あるいは「国籍」の付与主体であることに変わりはありません。しかし、さらに時代がすすみ、人びとが十分に混ざり合って活動するような時代になったとしましょう。共同領域同盟の各国は、領域の国境を加盟国で共有し、その領域内の人びとは自由に「各国」と保護契約を結ぶことができるようになることは、十分に考えられるように思います。

 これこそが、私の考える、国家の発展・解消した先にある無政府社会です。その移行期間のいつ何時においても、社会秩序は維持され続けます。人びとは社会との安定した関係を持ちながらも、次第に絶対的・強制的な権力を排除してゆくことができるのです。

 もちろん、これは私なりの夢想です。しかし、民主主義や人権思想、その他の私たちが誇るべき社会の進歩は、すべて初期の夢想が多くの人びとに共有され、そういった夢を信じた人たちの力によって実現されてきたのです。私は、絶対的・腐敗的な権力の存在しない、そんな無政府社会は決して夢想では終わらないと信じていますし、皆さんにも信じてほしいと願うのです。

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