何が当然なのだろうか

たとえば、ある人がたくさん稼いでいるとする。
稼いでいるのだから、多少は消費してもいいと思ったとする。
それは正しいだろうか?

たぶん、正しいって言いますよね、現代社会では。

もし、その人の家族が、夫または父がたくさん稼いでいるのだから、
家族は適当に遊んでいてもいいのだといったとしたらどうだろうか。

たぶん、それはあまり正しくないだろうって言いますよね。
妻ならば夫の稼ぎをかなり援助していると考える人と、
そのような内助の功はあまり考えないという人といるかもしれない。
息子や娘だったら、父親が金持ちだからと楽をするのは
いいことではないというかもしれない。
あるいは与えられたチャンスは生かして、
法律に触れるのでなければそれでよいとする考えもあるだろう。

酒を飲んで一生を暮らしても、
社会に奉仕して一生を暮らしても、
大差ないとするニヒルな考え方もあるだろう。

家族が遊んでいたら少しみっともないとしたら、
稼いでいる人自身が遊ぶのもみっともないものではないか。
という点についてはどうだろうか?

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またたとえば、
給料を要求するとして、自分の働きはどの程度の給料に値すると
どのようにして判断するだろうか?

どのくらい要求してもいいものだろうか?

あるいはあなたが社長さんだとして、どのくらい支払うべきだろうか。

リバタリアンはそんなことは倫理的な判断からは出てこない、
マーケットがすべてを決める、
自由市場で価格が形成される、
それだけだと言いそうだ。

高く売れるなら高く売って何も悪いことはない、
買う方も納得しているのだからという言い方だ。
一度失敗しても、次から賢くなればいいと言う。

自分がアルバイトをするとして、時給が高い方を選ぶのは当然だと言われそうだ。
意識の高い人ならば、
その企業がどんな活動をしていて、社会的にどのような勢力に荷担しているのかなどを見極めるかもしれない。
たとえば、事務作業があるとして、それが軍事的な使用目的がうっすらと見えている場合、
あなたは積極的に働くだろうか。
自衛力として作用するのだから価値があると考えるのも考え方であるし、
軍事力に荷担するのは嫌だとする考え方もある。

時給が高い方を選んで当然だと考えれば
すでにリバタリアンの入り口である。
そこは怖い。

なぜ自制できるか。
そこに社会規範というものがあるだろうと考える。
伝統的社会であれば習慣があるし、
そうでなければ宗教がある。
二宮尊徳や儒教やカトリックやイスラムやプロテスタントである。

しかし現代日本ではそのような規範がとても緩くなっていて、
残っているのは、かなりむき出しの形の、他人に傷つけられないようにしたいという意味での対他配慮かもしれず、
そうなると、ぎりぎりまでインセンティブを追求していいという
リバタリアンの考えが当然のように広がるだろう。

そこは自制のない社会である。
欲望を追求していいけれど、自己責任である。

欲望を自然な形で抑制する社会規範というものが
果たしていいものなのか悪いものなのか
社会規範をきつくしたり緩くしたりしながら
揺れながら歴史は続いてゆくのだろう

社会全部が揺れるというのも現代的な特徴だろう

昔は社会の一部にかなり開放的な部分があって、
しかし大部分はかなり抑圧的とか、
そんなものだっただろう。

開放的な部分に参入するにはそれなりの壁もあった。
しかし参入することも方法としてはあり
その代わり破滅しても文句は言えない。
そのような部分があっただろう。

江戸時代でもそうだろうし
平安時代にもそうだろう。
戦国時代は尚更そうだろう。

しかしそのような時代には、
見たくない人には見ないでいる自由があり
知らないでいる自由があったと思う

吉原に行かないで一生を終わる人が多かっただろう
芸術の狂気に触れることもなく過ごしたものだろう

しかし現代はそうではない

否応なしにいろいろな人を巻き込む社会
しかも商品の売りつけという形で

何が当然なのか、とても怪しい

昔の遊女の絵を見たりすると
化粧をして晴れ着を着て、
それは現代の女性のままではないか
それで当然なのか、怪しい