賢者の孤独

賢者であれ、愚者であれ、
極端な場合には孤独である。

賢者と愚者を客観的に測定することは難しい。
しかしそのようなものさしがあるとして、
両極端の場合には、孤独になる。

本の売れ行きとか、ブログの閲覧数とかを考えると、
多分、標準分布の真ん中あたりの水準のものが一番都合がいいだろうと思う。

出版に関しては、あまりに賢者であると、
出版社も理解しないので出版に至らない。
ブログはとりあえず発表はできる。
学会は、受け付けない。

賢者であるかどうかを判定する場合、
多数決と実験がある。
科学の場合は実験で確認できるので、
他の誰も理解していない理論でも、
正しいことが実証できる。
それが科学の魅力である。

科学ではない分野では
実験による検証が難しく、
結局、現在有力な人たちによる、多数決になる。
投票権は権力になる。
権力の一部は堕落する。

多数決が人間の社会なのだと諦めれば、
標準分布の真ん中あたりをめがけて発信すればいい。

非常な賢者が社会に埋もれることがある。
それはそれで本人にとって幸せなのだと思う。
発言したところで、おおむね、理解されないのだから。
失望ばかりを貯めていく。

そしてわたしなどがその人を賢者であると感じる程度なら、
その人はたいした賢者ではないのだろう。

完全な賢者は完全な孤独に閉じ込められる。

上中下で言えば、
中が一番生きやすく、同意を得られやすく、仲間を見つけやすい。
中の上は仲間が少ないが少しは優越を感じながら生きられる。

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ところで、患者は常に本質的に孤独である。
そこから先は言いようがない。