謙虚であるように

私たちは謙虚であるようにと言われて育てられた。
それは我々が自力でできることは少なく、
注意深く生きていれば、
人間は自立などしていない存在であり、自然に依存して、
生かされていることを知る日々だからである。

自然からの恩恵は抜きにして、
人間同士で比較したときにも、
他人にお世話になったり、他人のお世話をしたりして生きているわけで、
どの人もほぼ同じ平面に生きていると思うのだが、
そしてDNA分析をしてみれば単なる偶然ほどしか違わない遺伝子であって、
能力の差など、何も自慢するほどのこともない。
歴史上で回顧してみても優れた人はたくさんいるもので、
恵まれた現代に生きていれば、当然ということの方が多いような気がする。
この世で、有能な人ほど謙虚であり、
無能な人ほど傲慢であるのは不思議なことだ。

理由の一つをあげれば、有能な人には現実がよく見えるから、
自分の周囲にいる優れた人々の謙虚な様子がよく見えて、その結果、謙虚になるのだろう。
無能な人には何も見えないから、自分を誇る気持ちばかりが大きくなるのだろう。

また実際有能な人は他人の役に立つことができるので、感謝されるものだ。
人に感謝されていれば、自分が有能であることを誇る必要はなくなる。
むしろ謙虚にしていればますます褒められるというものであり、
それに誇るよりも謙虚にしている方がエネルギーが少なくて済むので、
大変に好都合であるらしい。
無能な人は自分を誇ることにエネルギーを費やしてしまっているのではないかと思う。

自己愛人格障害の場合にも、巨大に才能に恵まれていれば、かなりの自己愛的振る舞いがあっても、周囲は我慢するものだ。
その人の才能と自己愛が釣り合わないから、怒られるし、無視されるし、さげすまれる。
それだけのことであって、つまりは、現実把握力の問題なのだと思う。

ずいぶんな才能があっても謙虚すぎるのもむしろ周囲が気を遣ってしまうところがある。
ほどほどに自己愛的に振る舞ってもいいと思うのだが、
そのような人たちは謙虚に振る舞うことの楽しみを知ってしまっているし、
謙虚であることが最大の効果を生むと知っているので、なかなか謙虚をやめることができない。
その人にとっては、謙虚であることが一番楽なことで、むしろ趣味の一つである。