終わりから再生へ

現在45億歳の太陽は、これから数十億年後に赤色巨星になって終わりになる。

一つの文脈だけにはまって、

その中で最適化するというのは居心地の良いことだが、

一方で精神を弛緩させる。

あるライフスタイルがずっと

続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。

いや、これがずっと続くわけではない、

次には、全く新しいフェーズが来るのだと思えば、自ずから精神は緊張するし、

それに備えて様々な準備をしようと思う。

そんなひんやりとした感覚は

生きる上で誰にでも必要なのではないか。

石ころを見ていると、ずっと動かない。

その中心にある原子は、限り長い間そこにあり続けることだろう。

生命は違う。常に変化の中にある。

じっととどまっていることなどできない。

生きものであるのに、石ころのように振る舞ってはいけない。

常に前のめりで、一つの生の中でいくつもの新しいフェーズに入っていく。

そのように時間を過ごして、初めて潜在力を発揮することができるのだ。

一生のうちに、何回も「終わり」がある。

太陽系の誕生から消滅までも、何回も経験する。

そんな人生が良い。

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茂木健一郎 クオリア日記の一節を改編。

続けて言うとすれば、

命は「存在を続けること」ではなくて、

「経験すること」が大切なのではないかと思うのだが。

経験することを、

たとえば、魂の遍歴と考えて、この世で魂が何を見るかということでもよいし、

またたとえば、

DNAがこの世界への適応度を試しているのだと考えてもよいだろう。

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地球から木星まで光の速度で約45分だという。

太陽が45億歳だということは、

おおむね、地球は45億回、太陽の周りを回ったのか?

拡大し続ける宇宙のへりは、最初のビッグバンのときから

ずっと続けて拡張し続けているのか?

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命が時間の中で永遠ではなく、

変化を続けるものであるなら、

変化の時に苦しいとどうして意識は感じるのだろう。

意識はもっと変化を楽しめばよいはずなのだ。

いや、楽しんでいるはずである。

変化を苦しいと思うのは、

生命にとって例外に属するもかもしれない。

私の日常は

変化を苦しいと思ってしまう例外を生きているのではないか。

何かがずれているのだろう。

意識として本来の設定ではない。

コンピュータでたとえるとして、

長い間運転している間に、

設定がこっそり書き換えられているのではないかと疑う。

この億劫さ。変化に対する恐怖。

あのときも新しい環境に対する恐怖感が

私の意識を圧倒していたと思い出すことができる。

おかしなことに私の中にそのような恐怖の回路がある。

なぜそんな回路ができてしまったのだろう。

生育歴の中でなにかあったというのだろうか?