荒川洋治「詩と言葉」

これも本棚にずっとおいてあった本。

取り出して読んでみた。

昨日は午前中に虫歯の治療をした。

午後には仕事の打ち合わせをした。

しかも一日中ぎっくり腰を抱えて歩いていた。

午前中は頭が詩のモードだった。

本もよく頭に入った。

午後になったら頭は仕事モードになって、

本は頭に入らず溢れてしまった。

昼ご飯は住宅地でおしゃれな感じのランチを食べた。

隣で騒いでいた主婦の一団はSAPIXという袋を持っていて、

子供の塾の関係で集まったのだと分かった。

これってうんざりだなあと思った。

夜ご飯はサラリーマンの多い地域の居酒屋みたいなところで食べた。

隣でいろいろ語っていたサラリーマンは酒を飲んでいたせいもあるのだろうが

話が混乱してローマ帝政のことを話しているのに

ブルボン朝が出てきたりして一緒に話しているひとにからかわれていた。

ああ、これもうんざりだと思ってしまった。

どうせなら本が頭に入る頭のモードの方がましだと思う。

しかしそれでは世間を生きにくいのだ。

荒川洋治の本から抜き書きをしてみる。

一生の間に、一冊の詩集を出してみたい。そんな願いを持つ人は多い。詩を書かない人でもときにそうつぶやく人がいる。

仕事もした。成功もした。いい思いもした。いっぱいいろんなことがあった。でもいまひとりになったとき、ふと考える。これまでの人生で、ほんとうに自分というものがあったのか。ないのではないか。人のいうとおり、あるいはテレビや新聞のいうとおりの場所に、生き方に、しあわせがあると思って、それにそって生きてきたのではないか。自分の人生を自分で生きたと思っていたのに、そうではないのではないか。深夜ひとり風呂につかったとき、これまでの自分がまぼろしに思える。さみしいまぼろしである。そんなとき「詩集を出したい」という思いがこみあげる。自分のことばで、自分だけのリズムで、自由にうたいたい。ことばを残したい、と。

以上が引用であるが、そうだな、と思うのだ。

今日のサラリーマンの群れも、おのおの自宅に帰って一人になれば、そんなことも考えるものだろう。

「これまでの自分がまぼろしに思える。さみしいまぼろしである。」

そして、何という取り返しのつかない、まぼろしなのだろう。

すべて失われたあとにしか分からない、まぼろしの感覚である。

人生をしっかりとつかんでいない感覚、その残念無念な感覚があるとして、

詩集を出す、ことばを残す、そのことで、補えるものなのか?

そんなことはないと皮肉な感覚で思う。

ことばを残すことで意義のある人生に作り替えることができたと思う錯覚を

次世代にまで伝えることでしかない。

たとえば悲惨な人生があったとして、

そのままではその人の人生は骨折り損である。

なんとかして挽回したい。

そのためには、その体験をもとにして、言葉を残したいと思う。

無理もない。

本人の空想の中では、

その言葉に触れた、「理想的な読解力を持った読者」が、

みごとに著者のすべてを理解してくれて、

しかも、読者自身の人生の生きる羅針盤にもなるだろうと、

果てしもない夢想が展開しているのである。

そんなことはあるはずがない。

多分、誰も、読まない。

そして、読む人があるとしても、理解はしない。誤解があるだけ。

人生に対する理解は進まず、

いつでも再生産があるだけだ。

中学から高校にかけての読書の中ですべては作られるのではないかと思う。

たとえば、ゴールデンウィークが開けて、国語の授業が始まる。

きれいな言葉の詩が載っていて、読んでいるうちに、

眠くもなり、気持ちよくもなる。

昨夜の個人的な楽しみのせいで身体は重く、

午前中の体育のせいでとても眠い、

でも、若いので疲れを感じるよりは心地よい眠りに落ちる。

詩は多分そんな感覚で心の中にたたみ込まれるのだろう。

無害なものとして。

たとえば、刺繍のようなものだ。